第3回ー3
愛するジョアキンへ。
お元気ですか? 私は元気です。
私は〝
痛くて、痛くて、死にそうでしたが、あなたの顔を思い浮かべて頑張りました。男の子です。
私を愛してくれて、
「俺を担いでるのか、ユウジロウ?」
「いや」高橋は首を振った。「たしかにそう書いてある」
「……妊娠したなんて、一度も書いてこなかったぞ」
ジョアキンは嘆息すると、唇を嚙み、喜びとも苦しみとも分からない表情をした。右手の中指でこめかみを搔き
環境保護活動に熱心なジョアキンは、各州のセリンゲイロが作った労働組合の集会などに何度も通い、熱帯雨林の現状について知識を仕入れている。二度ほど付き合わされたことがある。
一年近く前、彼は町で若い女に声をかけられた。黒いカーテンのような髪の美人だ。一目惚れして関係を持った後、代金を要求されて彼女が娼婦だと知った。だが、ジョアキンの気持ちは変わらなかった。彼女をもっともっと知りたいと思った。
『俺の話はいい。君の話を聞きたいんだ』
娼婦は驚いた。客は誰もが黙って一時の肉欲をぶつける。満足したら金を置いて部屋を出る。
「私のこと聞きたいなんて人、初めて……」
彼女は自身の生い立ちを話してしまうと、もう他には変わり者の客のエピソードしか話題がないことに気づいた。薄っぺらな自分の人生に気づき、悩んだすえ、足を洗おうと決意した。
ジョアキンは彼女を知ってますます好きになり、押しに押して恋人になった。それ以来、ゴムの採取地に戻ってからも、月に一度訪れるゴムの商船を利用して文通している。
「俺はどうすりゃいい」彼の顔には困惑が張りついている。
「……誰の子か確信が持てないのか?」
彼女はジョアキンと出会う前まで体を売っていたのだ。父親が誰か分かるはずもない。
「何だって?」ジョアキンは
森の人間らしい能天気さに、ある種の微笑ましさを覚えた。
「じゃあ、何が問題なんだ?」
「子が生まれたことには驚いたけど、嬉しいよ。だけど、俺は森で暮らしてる。彼女は町だ。悔しいよ。一緒に暮らせないことも、養ってやれないことも、悔しいよ。どう返事すればいい?」
「正直な気持ちを書けばいいさ。それしかないだろ」
「……そうだな」ジョアキンはうなずくと、便箋とペンを差し出した。「代筆、頼むよ。ほら、商船はエンジントラブルで昨日は帰らなかったろ。今日の夕方までなら預かってもらえる。胸の奥から込み上げてくる……こう、何て言うか、炎みたいな思いを伝えたい」
「
「そう! まさにそんな言葉だ」ジョアキンは興奮して二度うなずいた後、苦笑いした。「環境保護の演説なら言葉もあふれてくるのに、何で彼女への手紙の文章は違うのかな」
「恋はそんなもんだろ」
愛も確信しないまま結婚し、その伴侶をあっと言う間に失った人間の言葉だったが、ジョアキンは納得顔でうなずいた。
高橋は息子を見た。
「さあ、回収に行くか」
二人で森に入った。
最初のゴムの木の前に来た。流れる白い乳液はもう止まり、カップに半分ほど溜まっている。勇太が中身をバケツに移し替えた。空になったカップは逆さまにして木の根元に置いておく。
エスツラーダを歩き、次の乳液を回収する。切り方が甘かったから三分の一も溜まっていない。
高橋は息子と三本目、四本目──とラテックスを集めて回った。ゴムの木百五十本全てを回収し終えたときには、夕方になっていた。
集落に戻ると、高橋は西の
燻蒸小屋に入ると、大鍋の縁を四本の木の棒で支え、その真下で火を
衣服も黒く染めそうなほどの黒煙が穴からもうもうと上がり、目に染みて涙が
高橋は熱した樹液をカマドの上の受け皿に注ぎ、煙に
ラテックスは
「僕もやりたい!」
勇太が目を輝かせ、小さく跳びはねた。
「これは父さんの仕事だ。お前は小屋に戻ってろ」
「ずるいよ。歩き回るより面白そうだもん。こっちがいい」
「駄目だ」
高橋は顎先で小屋を指した。勇太は頰を膨らませた後、土くれを爪先で蹴ってから出て行った。
息子を煙に晒すわけにはいかない。集めたラテックスを煙で燻す作業を毎日続けるうち、セリンゲイロは肺病に冒される。それは職業病だ。生きていられるかぎり、それを息子に任せるつもりはない。
高橋は再び咳をした。
「大丈夫か」
ポルトガル語が聞こえた。黒煙の向こう側で人影が揺らいでいる。手のひらのウチワで煙を払い、目を向けた。セリンゲイロの一人が立っていた。上半身裸で褐色の肌を晒しており、ラテックスが満ちた金属の壺を脇に抱えている。
「避けては通れないからな」高橋は答えた。
「酢酸で処理すればどうだ。新しい凝固法なんだが……」
「酢は駄目だ。ゴムの質が落ちる」
「……早死にしちまうぞ」
高橋は苦笑で応えた。分かっている。だからこそ、体が動くうちに息子を一人前にしたいと思っている。だが、セリンゲイロとしての人生は、息子に幸せを与えてくれるだろうか。
他の生き方があるのでは? 森より町の生活のほうが満たされるのではないか。
日本人が働く入植地を転々とした後、この緑の牢獄で二十年間暮らしてきた。父親として悔やむことがある。成功した日本人移民と失敗した日本人移民。一体何が違ったのだろう。
金を貯めていつか町に、そして、日本へ──。
そんな思いは常にある。商船の船員から買った古新聞で外の世界の情報を読んでいるのはそのためだ。
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