第6回ー6

「コロニアで助け合わにゃなんね」

「コロニア?」父が聞き返した。

「日本人の〝コミュニテー〟のことだべ。こっちは外人ばかりじゃ。おらたちが手を取り合わにゃなんね。もう戦時中とは違うんだ」

 太平洋戦争がはじまると、連合国側に味方しているブラジルでは日本語教育も日本の発刊物も禁じられた。日本人が固まって会話しているだけで警察に連行されたという。

「戦争が終わっても、敗戦国の人間だ、ちゅう目で見下されたべ。そのたびに日本人の誇りさ見せてやる、って踏ん張ってきたさ。けんど、日本人同士、協力し合わにゃ生きていけんちゅうのに参ったべ。勝ち組、負け組だのいがみ合って……」

 一九四五年八月十四日付けのブラジル紙『Folha da Noite』が日本の無条件降伏を報じると、祖国の勝利を信じる『勝ち組』と、敗戦を認める『負け組』が対立したらしい。弾圧に耐え忍んできた日本人移民にとっては、日本の勝利が唯一の希望だったから敗戦が信じられず、『負け組』に嫌がらせやテロを繰り返した。

「あのころ、日本の軍艦が移民たちを迎えにやって来るなんて噂が流れてよ。おらは信じて日本円を買っちまった。後で『円売り』ちゅう詐欺行為だって知ったけんど、手遅れだったべ。円なんか何の役にも立たん。無一文になって入植地を転々としたさ」野澤は自嘲の笑みを漏らした。「十年近く日本人同士が敵対したけんども、今は違う。やっぱり日本人は日本人同士、力を合わせるもんだべ」

「日本に帰られるつもりはないんですか」父が訊いた。

「故郷へ帰る夢は敗戦を知って諦めたべ」

 口調には諦観が滲み出ていたが、何度も諦めたはずの望郷の念にしがみついているのは明らかだった。

「なぜです」

「日本政府が何してくれただ? 国策、国策ゆうておらたちをていよく追い出して後は知らんぷり。開戦したら大使館員たちはみんな引き揚げちまった。いし大使の決別の書は忘れられん。『在留民諸君ノ健在ト幸福ヲ心ヨリ祈念スル』なんて結んで、さよなら。これじゃ移民でなく棄民だべ。政府が自国民を守ってくれんなら、おらたちは何を信じ、何を頼ればいいんだべ?」

 父は答えなかった。何も答えられなかったのだろう。

「希望は苦しみの種だべ。育てても何にもならね。諦めたほうが楽なこともある。あんさんらも、故郷に錦を飾る、なんて考えを持ってるなら、早く捨てたほうがいいべ」


 実際、チョコレートのような甘い生活はどこにもなく、空腹で道端の雑草を齧ったときと同じ苦い毎日があるだけだった。服がほころんで破れるたび、母が渡伯前から大事にしていた裁縫道具で継ぎはぎした。

 ある日、家族総出で畑を耕していたら、突然、盛り上がった土の塊がのたくり、滑っていった。勇二郎は錯覚かと思い、目をこすりながら顔を近づけた。茶褐色の大蛇だった。鎌首を持ち上げ、舌を出し、蒸気を吐き出すように「シュー」と音を立てて威嚇する。

 飛び上がって父に駆け寄った。

「大きな蛇が──」

「任せろ」

 父は臆することなく三メートル級の大蛇にエンシャーダを叩きつけた。大蛇は怒り狂って猛然と暴れたが、二発、三発と首根っこを打ち据えると、けいれんして動かなくなった。

 蛇の肉は家族の貴重な栄養源となった。

 その年の米の収穫は、前年の半分以下だった。

 パトロンのブラジル人は、苛立ちを隠そうともしなかった。なたで切りつけるようなポルトガル語で怒鳴った。日本人監督が訳した。

「ノルマを果たせと言ってる。お前の畑の収穫が悪いのは、ジボイヤを──害虫を食ってくれる蛇を殺したからだ、一時の肉のために畑の守り神を食ったからだ、と」

 隣の野澤が苦笑混じりに言った。

「気にすることはねえべよ。ガマの入植地は昔から最悪だべさ」

 そのとおりだった。豊作を夢見て試行錯誤しても、ガマの畑は入植者を小馬鹿にするように凶作続きだ。肥料も作物に行き渡らない。微生物の餌にしかなっていないのではないか。

 ひたすら無意味な畑を耕す毎日──。

「父ちゃん、もう無理だよ」勇二郎はつぶやいた。

 父は黙々とエンシャーダを振るっていた。

「俺は諦めんぞ。絶対に諦めん」

「でも、父ちゃん……」

 父は作業をやめて振り返った。麦藁帽子を脱ぎ、首に巻いた手ぬぐいで汗を拭く。

「勇二郎。太平洋戦争は、今じゃ間違った戦争だと言われてる。だがな、俺たちは正しいと信じて戦った。日本は負けてしまったが、今も当時も気持ちは変わらん。お国のためという思いはもちろんあったが、俺たちは国の家族の命のために──これから生まれてくる子供たちの未来のために命を懸けたんだ。俺は絶対諦めん」

 寡黙な父が初めて饒舌に思いを口にした。

「きっと、国の誰もが日本を復興させようと頑張ってる。俺たちも泣き言は言っていられん。日本人はどんな苦境に立たされても、逞しく生き抜けるってことを証明してやろうじゃないか」

「……うん」

「昔、学校の先生に教えていただいた言葉がある。ジムロックというドイツの文学者の言葉だ。〝忍耐の草は苦い。だが、最後には甘く柔らかい実を結ぶ〟。この言葉を心に刻め」

 父は麦藁帽子を被り、再び作業をはじめた。勇二郎は不平不満を胸の奥にしまい、黙って畑仕事を手伝った。奥では母と兄が働き続けている。

 突然、雨に打たれた。熱帯雨林特有のスコールだった。勇二郎は家族と畑から逃げ帰った。小屋の前に農具を放り出し、びしょ濡れの顔をタオルで拭きながら中に入る。

 外から父の怒鳴り声が追いかけてきた。

「道具は大事にしろ。錆びるだろ。後片付けせんか!」

「ごめんなさい」

 外に戻ろうとしたとき、小屋の隅に吹きだまる暗がりの中で何かが動いた気がした。見ると、たんの引き出しが開け放たれており、野澤が紙幣を握り締めていた。彼は両目をき、口を開いている。

「何してるの、野澤のおじちゃん……」

 小屋に入ってきた父も野澤の姿を認めた。

「何しているんです。それは私たちの金だ」

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