第6回ー5

 入植地にたどり着くと、辺りを見回した。扉もない木造の小屋が並んでおり、入り口に丸太や薪、農具が転がっている。

 一家は荷物を小屋に運び込むと、簡素なベッドに寝転んだ。全員、緊張と不安で目が冴え、眠れなかった。短くなっていく蠟燭が家族の運命に思えた。

 翌朝、家族揃って小屋を出ると、見知らぬ日本人の男が立っていた。長袖シャツに長ズボンで、むぎわら帽子の下の顔は日焼けで赤黒い。

「……おらはざわだ。ひょっとして新人さんかい」

 父が「ええ」とうなずくと、野澤は生気のない薄笑いを漏らした。

「募集要項にだまされた口だな、あんさんらも」

「騙された?」

「政府は大ぼら吹きだべ。年じゅう豊作だ、三十年は無肥料で耕作できる肥沃土だ、言われて移民を決意したけんど、全部噓だったさ。特にガマの入植地は最低だべ。作物なんかろくにできねえし、森でヤシの実を拾って飢えをしのがなきゃなんね。猿じゃあるめえし」

 勇二郎は啞然として聞いていた。

「手紙も出せん、電話も使えん。誰かに訴えようにも、こんな森の奥地じゃ、とても無理だ。あんさんらも覚悟したほうがいいべ」

 野澤は鍬を担ぐと、原生林へ歩いて行った。背中が丸まっており、今まで地面の絶望だけを見て歩いてきたように見えた。

 やがて他の家族も起きてきた。全員が揃うと、監督の日本人がパトロンのブラジル人を紹介した。つばひろ帽子をかぶった髭面の男で、シャツの襟元から胸毛が覗いていた。腰にピストルと山刀マチエーテを下げ、革長靴を履いている。

 パトロンから渡されたのは一家族、米一俵だった。

「ええとですね……」日本人監督が説明した。「一年分の生活費は借金となりますが、収穫した米で返済できます」

「収穫量が少ない年はどうなります」移民の一人が訊いた。

「その場合は借金が残ることになりますが、まあ、ブラジルは豊潤な土地ですから心配はいりません。毎年、豊作ですよ」

 高橋一家が案内されたのは、小屋から二キロほど離れた畑だった。後ろにはガマ川が流れている。

 先輩の日本人移民が名乗り、「よろしくお願いします」と一人一人に握手していく。

 勇二郎は彼の手を握ったとき、農具を長年振るってきた男の握力と手のひらの硬さに驚いた。何度もマメを潰したらしく岩肌のようだ。

 母は「私もあんなふうになるのかねえ、やだ、やだ」と笑いながら独りごちたが、父と一緒にその日から人一倍、農具を握った。スカートなどははかず、裾を絞った動きやすいモンペ姿で。

 勇二郎が「暑い、暑い」と不満を漏らすたび、母は遠くの川まで歩いてバケツに水を汲んできて、小屋の前に柄〓で撒いた。

「打ち水をしても涼しくならないねえ……」

 そう言いながらウチワで扇いでくれる母を見るたび、文句や贅沢は言うまいと心に決めたが、やはり不満は口をついて出た。

 渡伯して半月は移民たちもまだ元気だった。サトウキビの蒸留酒ピンガを酌み交わし、郷土民謡を唄うことが数少ない娯楽でも、一生懸命働いた。日本で頑張っている同胞たちを思うと、我がままは言っていられない──。そんな思いがあったのだろう。

 勇二郎が一番不満だったのは、娯楽が何もないことだった。

 ある日、母が古びたで虫網を作ってくれた。日本では『昆虫採集セット』を買い、夏休みじゅうバッタやトンボを追いかけ回したものだ。

 勇二郎は虫網に喜び、森へ遊びに行った。森は不思議な昆虫の宝庫だった。興奮して走り回り、何匹も捕まえては籠に入れた。だが、それも最初だけだった。ブラジルでは昆虫など珍しくもなく、自慢する相手もいない。一週間も経たないうちに飽きてしまった。

 翌月になると、勇二郎は小学校に──実際は教師でもない大人が簡単な勉強を教えているだけの〝場所〟だったが──入学した。

 入植地から五キロほど歩くと、雑草が生い茂る草原のど真ん中にレンガ造りの建物があった。現地の黒い肌の子供たちが裸足でやって来ると、雨の日は床が泥の足跡だらけになった。

 毎日毎日、隣の子と肩が触れ合うほどの鮨詰めで授業を受けた。教室が一つしかないため、昼になると、他の子供たちと交替する。帰宅してからは畑仕事を手伝った。

 十歳の手には余るエンシャーダ──ブラジル製の鍬──を取り上げ、農具に振り回されながらも畑を耕した。掘り返した土に交じってミミズが──後にミミズトカゲという爬虫類だと分かった──うごめいていた。日本にいたころは嫌いだったミミズも、今や気にならない。

 必死で働いたが、ガマの入植地の土は瀕死だった。ブラジルで主流だという陸稲──畑で栽培する稲──は半分も実らず、畑は毛をむしられた巨大な動物の背のようだ。

「今年は借金が増えそうだな……」父が母に言った。「今日から売店には行くな」

 日本人移民たちは数キロ先の売店に行き、パトロンから受け取る微々たる生活費でジャガイモや干し魚を買っておかずにしていた。

「分かりました」母はうなずいた。「やり繰りします」

「森で食える草の根や木の実を探せばおかずになる」

 生活は苦しかった。マンジョーカ芋の粉を水に浸して団子にしたものや、パパイアの根っこを塩で和えたものを食べるしかない。

「……おなか減ったよ」

 勇二郎は空っぽの胃を押さえながらつぶやいた。

「贅沢言うな。戦時中はな──」父の口癖だった。「内地の人間は決戦食で耐え忍んだもんだ」

「決戦食って?」

 父は答えなかった。代わりに母が答えた。

「戦時中は食料がなくてね。お米も、お味噌も、お砂糖も、全部配給制度が敷かれていたの。着物と物々交換しなきゃ、卵も手に入らなかった。末期には、決戦食って言って、お芋の蔓とかカボチャの種が主食だったんだよ」

「これもあんまり変わんないや」

 勇二郎は唇を尖らせ、パパイアの根を箸で突っ突いた。

「文句があるなら食うな」父が顔も上げずに言い捨てた。

 上目遣いで窺うと、家族の中で一番体が大きい父の皿の食べ物が母と同じくらい。それに気づいたとき、父が毎夜、布切れを嚙み締め、腹を──胃を握り締めて眠ろうとしている姿の意味を知った。

「……ごめんなさい」

 勇二郎はもう文句を言わず、黙ってパパイアの根をかじった。

 野澤が小屋を訪ねてきたのは、そんなときだった。

「差し入れだべ。ほれ、おかれんこんでも食いな」

 オクラだった。母は礼を言うと、味噌で和えて小皿に盛った。一口でなくなる程度の量だったが、貴重な食料だ。

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