第6回ー4

 父は数日がかりで家族を説き伏せた。

 だが、勇二郎は異国の地が怖かった。反対したかった。両親には言えない不安を口にすると、兄は心強い笑みを浮かべた。

「知ってるか、勇二郎。向こうにはチョコが山ほどあるんだぞ。カカオの国なんだ。お前の大好きなチョコ、食い放題だぞ」

「本当?」

「兄ちゃんがうそついたことあるか?」

「……一回。俺は腹減ってないって言って駄菓子くれた」

「あんなものは噓って言わないんだ」

 兄は楽しそうに大笑いした。その顔を見ていると、不安は薄らぎ、希望が目の前に広がっているように思えた。

 高橋一家は応募して『海協連(財団法人日本海外協会連合会)』から合格通知書を受け取ると、移住契約と渡航費貸付契約を結び、『あめりか丸』に乗船した。港にも甲板にも人々がひしめいている。和装と洋装が半々だ。

 移民の責任者は甲板を見回った。様々な都道府県から集まった家族が乗っている。

 農家の女は、あかぎれだらけの手で娘を抱き寄せていた。おさげ髪の娘は、後生大事におにぎり一個を握り締めている。

「母ちゃん……」

「心配するでねえ。あっちは年じゅう夏でな、どんな作物でも育つんだべさ」

 製糸工場で働いていた男は、妻子と肩を寄せ合っていた。

「ブラジルに行けば、生きられる」男が家族に言った。「向こうは馬鹿でかい国だ。日本みたいな島国の一つや二つ、飲み込めるほどでかいんだ」

 波止場を見下ろすと、たくさんの見送りが集まっていた。去りゆく移民の縁者や友人だ。矢羽根柄の羽織を着た女がいる。紋付き羽織袴姿の老人がいる。泣き顔を前掛けで覆う老婦人がいる。跳びはねて両手を振る男児がいる。日の丸を振って叫ぶ男たちがいる。

「体に気をつけろよー!」

「達者でなあ!」

 見送り人たちと船上の家族たちが無数の紙テープを投げ交わした。茜空に架かる幾筋もの虹のようだった。

「万歳、万歳、万歳──」

 波止場の人々がもろを上げて見送る。

 の音が鳴り渡ると、楽団が演奏する物悲しい『ほたるの光』に見送られ、大勢の人生と希望を乗せた『あめりか丸』が出港した。色とりどりの紙テープの束が千切れてゆく。一人の女が腕を港に──日本に向かって伸ばした。祖国とつながっていた綱を手放したまま、名残惜しげに固まったようだった。

 数組の家族は涙をたたえながら、手を振り続けている。

 日本の街明かりが遠のいていった。最後の日本の姿かもしれないと思い、涙があふれた。

 横目で窺うと、父は手すりを握り締めていた。日本の復興に尽力できず、生活のためとはいえ祖国を見捨てるなど、戦争を生き延びた家族にも戦友たちにも申しわけない──。そんな悔しさが唇ににじんでいた。

 やがて夕日が沈み、闇が広がった。灯台の明かりも夜に溶け、波が船体を洗う音しか聞こえなくなった。一面の黒い海に白い航跡が尾を引いている。威勢よく見送りに応えていた者たちも、次第に無口になった。誰もが遠い目を日本の方角に向けている。

 希望は本当にあるのだろうか──。そんな不安が見て取れる。

 突風が吹き、洋装の婦人がスカートを押さえた。山の高い流行りの婦人帽がさらわれ、闇夜に舞い、海面に落ちた。それはしばらく黒い波にもてあそばれた後、奈落に飲まれるように沈んでいった。


 出港から一カ月。移民船は航海を続けていた。船底の大部屋に閉じ込められた大人たちは、希望より諦観を覚え、望郷の念に駆られていた。元気を残しているのは子供だけだ。

 暇を持て余した着物姿の男の子が知り合った子供と遊んでいる。日本で流行していたチャンバラごっこだ。丸めた二本の新聞紙を構えている。

 移民船はさらに何日も航海を続けた。コロンビアの港を経由してリオ・デ・ジャネイロに着いたのは、出港から四十五日目だ。

「これから、それぞれの入植地へ向かっていただきます」

 責任者はそう言うと、日本人移民たちと下船した。口を開けば喉の奥を火傷しそうなほどの陽光だ。

 着物姿の女は汗だくになりながらも、夫をウチワで扇いでいた。夫は目を細め、袖口で額の汗を拭った。

「そんなもんじゃ、しのげそうもねえ」

 移民たちは誰もが戸惑いがちに街を見回した。白や黒や茶の肌をしたブラジル人たち。聞こえてくるのは異国の言葉ばかりだ。船内で勉強した程度の単語では理解できないだろう。

 入国手続きと通関検査を終えた移民たちは、分散してそれぞれの入植地を目指した。

 高橋一家は数家族と一緒に汽車に乗った。

 汽車から降りると、責任者がアマゾンの密林に案内した。

「目的地までは一週間です」

 誰もがほうけた顔で立ちすくんでいた。

 広大な熱帯雨林に圧倒された。巨木が何十メートルも伸び、交錯する枝葉が空を隠しているせいで薄暗い。藪が生い茂り、つたの群れが地面を這いながら木々の幹に絡みついている。羽状の植物が壁を作っていた。猿や鳥の鳴き声に交じり、移民たちが踏み締めた小枝や枯れ葉の裂ける音がする。

 文明を拒絶する原生林。足を踏み入れたら二度と帰れない──、そう思わせられる。

 木造船が停まる川の幅は数百メートルもあり、対岸は立ち込める朝もやによって薄緑に霞んでいた。ときおり流木がゆったりと──森が生きてきた歳月と同じくらいゆったりと流れてくる。黄土色の川面に反射する人々の顔は、内心を映し出すように揺らいでいた。

 移民たちは覚悟を決めたというより、諦めたという表情で一人、また一人とペンキ塗りの木造船に乗り込んでいった。

 高橋一家と他の数家族はガマ川をさかのぼり、北部のパラ州ガマ移住地へ向かった。下船したのは、夜の海面のような闇に塗り込められた密林だった。葉の多い無数の蔓植物が垂れ下がったり、巻いたり、波打ったり、無限に変化して辺り一面を這い回っている。

 二十数人の影が二列になって原生林を進んだ。見上げると、母の顔も闇に包まれて表情が分からなかった。先頭を歩く案内人のランプが人魂めいて浮かび上がっている。湿った空気は何だか重たげで、ひんやりしているのになぜかシャツが濡れた。

 勇二郎は母の手をしっかり握り締め、歩いた。放してしまったら二度と触れられないような不安があった。

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