第6回ー3

 三浦はゴムの木に近づいた。両腕を広げたよりも太い幹だ。樹皮に刻まれた真一文字の傷が横に三本並び、それぞれからラテックスが分泌され、三つのカップに流れ落ちている。

「ゴムはこのように採取されているんですね。実際に見るのは初めてで、興味深いです」

 高橋は何も応えず、切り傷をじっと睨みつけている。やがてぽつりと言った。

「これ、どう思う……?」

 三浦は彼の横顔に尋ねた。

「どう──とは?」

「今朝、息子が一度切り損なって、傷をつけ直したのを見て、ぴんと来たんだ。本来、ゴムの木には一本だけ傷をつける。だが、これは

「そのほうがラテックスを多く採取できるから──ですかね」

「仲間たちのゴムの採取量が突然二倍、三倍になったのは、こういう理由があったからだ。これがどういうことか、植物の専門家なら分かるだろう?」

「……傷を増やせば乳液は多く流れるでしょうけど、その分、ゴムの木が傷んで弱ります」

「ああ。森の人間なら百も承知のはずだが……。なぜこんな乱暴な採取をしたのか」

 高橋は緑の天蓋を仰ぎ見ると、ため息を漏らし、「戻ろう」と背を向けた。

 二人で集落へ戻り、小屋に入った。向き合って座った。口火を切ったのは高橋だった。

「たぶん、賃金──だろうな。ゴムは年々値下がりして、もはや今までどおりの収穫じゃ、やっていけない。ゴムの木を傷めてでも二倍、三倍の量を採取するしかなかった。そういうことなんだろうな」

「……おそらく、そうでしょう」

「セリンゲイロも先は──ないな」

 高橋の声には悲嘆が絡みついていた。

「あなたは日本人なのに、どうしてこんな森のど真ん中でセリンゲイロを──?」

 高橋の瞳に自嘲するような色が宿った。

「何か変な質問をしてしまいましたか?」

「いや」高橋は緩やかにかぶりを振った。「俺は望んで森の人間になったわけじゃない。両親が渡伯したんだ」


 12


 一九四五年八月十五日、天皇陛下の玉音放送が国じゅうに流れ、日本の無条件降伏で太平洋戦争は終結した。

 夕日がれきだらけの焼け野原を茜色に染めていた。裸の男がドラム缶風呂に浸かっている。板切れで作った衝立の前には、汗と垢と泥を流したい者が列を作っていた。広場では、人々が七輪の上のはんごうで雑炊を炊き、一杯ずつ分け合って食べている。大勢が寄り集まり、助け合って生きていた。

 ゆうろうが生まれたのは、戦後間もないそんなころだった。

 食糧や物資が不足し、国会議事堂前の庭も芋畑となった。新聞は粗悪な仙花紙で作られ、記事も詰め込まれていた。ろうそくはハゼ蠟を空き缶に詰めて使っていた。

 だが、誰もが不平不満を喉の奥に押し止め、生活した。

 玉音放送の全文が掲載された東京新聞には、『忍苦の二字を肝に銘じ』『突き進まんイバラの道』と書かれていた。日本人はその言葉を心に刻み、苦難の中でも生き抜く決意をしたのだ。

 皇居前の広場では、「米をよこせ!」と大規模なデモが行われたが、母は参加しなかった。

「国が大変なときに国を非難していては駄目」

 そう言っていた母だったが、トウモロコシやコッペパンの欠配が一週間続いたとき、闇市に頼る決意をした。

 市場は何千人もの人々が押し合いへし合いしていた。母は着物を売った金でサツマイモを買い、リュックサックに詰め込んだ。砂糖の代用である人工甘味料サッカリンは少量でも高価だった。

 戦後六年経っても日本は貧しいままだった。

 料亭やバーなど建物が少しずつ建ちはじめたぎんなみ通りでは、裸の街路樹と街路樹のあいだに縄が渡され、洗濯物が掛けられていた。衣服が寒風に打ちのめされ、物悲しくはためいている。

 歩道には大勢の靴磨きが──大半は戦災孤児だ──陣取っていた。米兵が木箱に片足を乗せると、黙って靴を磨く。その前を廃品回収の浮浪者が生きる目的のない目でふらふら歩いていく。ゴミ籠を漁る屑屋も多い。腰を折り曲げ、煙草の吸い殻を箸で摘んで集める老人もいる。ほぐして紙で巻き、闇煙草を作るのだろう。

 十歳になった兄は銀座の歩道で靴磨きをしていたが、「米兵の足元にひざまずいて靴を磨くのは屈辱的だぞ」と言い、日本人の客が多いゆうらくちようのガード下に仕事場を替えた。そして割烹着姿の婦人たちに交ざり、『REXの靴クリーム』を使って布切れが擦り切れるまで毎日毎日、一生懸命働いた。拾圓券のために。

 娯楽と言えば、紙芝居屋の紙芝居を路上で見ることくらいだった。競い合うように子どもが群がるため、まだ五歳の勇二郎は、いつも後ろから背伸びして覗き込んでいた。

 米兵がジープからチョコレートをばら撒くと、子供たちは蟻のように群がった。一度、母が拾ったチョコレートを舐めさせてくれたことがある。父が「畜生のまねをするな」と怒鳴ったが、甘くておいしい味は舌に残っている。

 小学生になると、少ない小遣いで駄菓子屋のチョコレートを買っては食べ、母に「虫歯になるよ」と注意された。

 両親がブラジル移住を決意した理由は何だったのだろう。

 もしかすると──兄の言動がきっかけかもしれない。

 一九五二年、日本が東南アジアから輸入した米に黄変米──カビによる変質米──が交ざっていることが分かった。その二年後、政府は黄変米の混入率の基準を緩和して配給を強行した。消費者団体が猛反対して中止させたが、厚生省は黄変米の混入率を決めるための人体実験アルバイトを一日千円で募集した。サラリーマンの平均月収が二万六千円の時代だ。

 兄が言った。

「勇二郎、母ちゃんには内緒にしておけよ。俺は年齢を偽って採用してもらうつもりだ」

 勇二郎は怖くなり、母に告げ口した。家族のために生活費を稼ぐ機会を失った兄には怒られたが、後悔はしていない。

 結局のところ、そんな兄の覚悟を目の当たりにしたことが両親の心を変化させたのかもしれない。

 太平洋戦争の開戦で中断していたブラジルへの計画移民は、一九五二年から再開されていた。高橋一家はその四年後、渡伯を決意したのだ。

 勇二郎は、襖ごしに口論を聞いていた。

「わしらを裏切る気か!」祖父が父に怒鳴った。「力を合わせて日本を復興させにゃならんちゅうときに、逃げるんか」

「すみません、お父さん。私たち家族も食べていかなくてはいけません。向こうでお金を稼いで必ず戻ってきます」

「夢を見るな。現実を見ろ」

「……私たちのためにお父さんたちが切り詰めているのは知っています。これ以上、お世話にはなれません」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る