第8回ー7

 男はポリ容器の水をグワンパに注ぎ、突き出した。ジュリアは相手の顔を見つめた後、縛られた両手でそれを受け取った。草の香りが鼻に広がった。底にはマテ茶の粉が沈んでいるようだ。

 ボンバと呼ばれる金属製のこし器付きストローに口をつけた。喉の渇きが癒された。

 グワンパを返すと、男はポリ容器の水を注ぎ、今度は自分でマテ茶を飲み干した。そして操縦に戻った。

 カヌーは黒い川を進み続けた。薄闇の中、無数の大枝が対岸までまたがんばかりに迫り出していた。その大枝から花の房をつけた蔓の群れが垂れ下がっている。ときおり、頭を下げてやりすごした。

 永遠に続くような時間が過ぎたとき、岸辺にカヌーが寄せられた。多様な植物が水際を縁取り、岸を覆い隠している。

「降りろ」

 ジュリアは岸に降り立つと、二人に挟まれて密林の中を歩いた。文明を締め出すように巨大な樹林が立ちはだかっている。ランプだけが唯一の明かりだった。寄り集まった蔓の群れは、無秩序に張り巡らされた無数の黒い縄のようだった。光が揺れるたび、植物の影が生き物めいてうごめく。

 蔓が動き出して男たちをからめ捕り、締め上げてくれたらどんなに嬉しいか。アマゾンの熱帯雨林は、そんな妄想も実現しそうなほど不気味だった。

 若いカウボーイハットが吸ういがらっぽい煙草の煙が漂ってくる。不快なにおいだ。

 そのうち、開けた場所に着いた。牧場だった。寝そべっているのは十数頭のヤギ──いや、違う。見間違いだ。ヤギに見えるほど瘦せ細った白い牛だ。

 二人は牧場主に雇われて牛の世話をするカウボーイ──ガウチョだろうか。大抵は白人開拓者と先住民の混血だ。

「旦那さんが呼んでいる」

 連れて行かれたのは、赤茶色に塗られた木造の小屋だった。

 中に入ると、柵の中で十数頭の豚が飼育されていた。飼料に鼻面を突っ込み、餌を食べていた。ときおり鼻を鳴らし、ゲップするような鳴き声を上げている。

 高窓から射し込む月明かりも届かない隅の暗がりから、人間の息遣いが聞こえてきた。

 ジュリアは恐る恐る近づいた。山積みになった干し草の上で二人の裸の女が──薄闇に溶け込む黒い肌の太った女が抱き合っていた。二つの波打つ脂肪の塊に隠れていたが、茶褐色の中年男がサンドイッチになっている。

 ──三人でヤっている!

 ジュリアは嫌悪感を抱いた。行為にではなく、ぶよぶよの脂肪に──。

 黒人の大女に挟まれた中年男は腰を動かし続け、やがて官能的なうめき声を上げて果てた。

 立ち尽くしていると、黒い肉布団から抜け出た男が立ち上がり、ランプに火を灯した。薄ぼんやりした光で闇が追い払われる。

 男は中肉中背だ。射精したばかりのペニスが垂れ下がっている。黒髪はオールバック気味に撫でつけてあり、目はかみそりで切り目を入れたように鋭い。黒いくちひげを生やしている。

「牧場主のアンドラーデさんだ」カウボーイハットが言った。「粗相のないよう、質問には正直にな」

 見覚えがある。

 たしか──。

「早かったな。連れてくるのは明日の朝かと思った」アンドラーデはパンツとズボンを穿き、ジュリアを見た。「豚小屋の干し草は部屋の小綺麗なベッドよりも落ち着く。納屋のわらの上で産み落とされたからかもな」

 何週間か前、娼婦と間違えて声をかけてきた。札束をちらつかせて高圧的に命令すれば、ファベーラの女など思いどおりになると思い込んでいるような男だ。

 アンドラーデがリネンのシャツを羽織り、上から順にボタンを留めていく。

「俺の親父は日雇いの牧夫でな。病院で出産する金などなかった」

 アンドラーデが歩み寄ってきた。あごさきを摑まれると、ジュリアは首をひねって振りほどいた。

った金を返してもらおうか」

 高慢な豚男に一泡吹かせてやりたくなり、誘いに乗ってホテルまで行った後、隙をついて財布を持ち逃げした。まさか執念深くカウボーイハットの二人組を雇ってまで捜しているとは思わなかった。

「……何の話か分からない」

「お前が盗ったことは分かってんだ。財布を盗んで、逃げ出しやがって」

「私は知らない。どこかでスられたんじゃないの? ファベーラじゃ日常茶飯事だから」

「そうか……」アンドラーデの眼差しに憤怒が表れた。二人の男に顎をしゃくる。「吊るせ」

 同じ命令を何度も受けているのだろう、二人のカウボーイハットは豚小屋の片隅にとぐろを巻く麻縄を取り上げた。

 抵抗は無意味だった。あっと言う間に天井のはりから吊られた。爪先が辛うじて地面に触れており、全体重が手首にかかるのを何とか防いでいる。

「正直に吐きたくなるようにしてやる」

 アンドラーデは木の台からカップを取り上げ、ランプの明かりの中で蓋を開けた。濃緑色の毛虫の群れが蠢いていた。親指ほどの大きさで、長毛がびっしりと生えている。

 生理的な嫌悪感を催した。

「噓を引っ剝がす方法はいくらでもある」アンドラーデが薄笑いを浮かべると、口髭がいびつに歪んだ。「ベネズエラロノミア・ヤママユガアケロウスの幼虫だ。毛に隠された細いとげは、凝血を分解する液体を分泌する。触れたら体じゅうの穴という穴から出血して止まらなくなるってことだ」

 不安をあおり立てるように数頭の豚が鳴きしきる。

「お前の葬儀に集まる親族や友人、全ての人間の涙を合わせたより大量の血が流れるだろうな」

「だったら大したことないね」

 自分のために泣いてくれるのは、親友のイレーネしかいない。

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