第5回ー5

 爪の下の皮膚が裂け、鮮血が丸く盛り上がった。長身のインディオが指先の血を摘まむと、丸々と太った寄生虫がうごめいていた。

 気づかないうちに入り込んでいたのか。文献で似た寄生虫を見たことがある。あるいは、人の体を養分にして卵を産みつける砂ダニの一種かもしれない。

 長身のインディオが人懐っこい笑顔を見せた。

「オブリガード」

 言葉は通じなくても礼を言った。

 やがて年老いたインディオが現れた。腰布一枚だ。わにの歯を連ねた首飾りがなめし革のような褐色の肌に映えている。

「私は族長のチュチャカブだ」流暢なポルトガル語を喋り、ジュリアの容体を確認した。「薬が必要だな」

 チュチャカブはヤシの実を半分に割った椀に乾燥ハーブを入れ、水で煎じた。

「チャンカピエドラだ」煎じた茶を彼女の口に含ませる。「良薬だ。心配ない。森の病は森の薬草で治せる。彼女は治る」

 言葉には年輪を重ねた大木のような力強さがあり、無条件でジュリアの快復を信じられそうな気がした。インディオは子供でも六十種の蜂を区別し、六百種の植物を把握して利用しているという。

「死者はみな精霊となる。その時期は森の精が教えてくれる。この少女はまだその時期ではない。心配いらない」

「助けてくれて感謝します」

「君は白い肌ではない。ブグレイロではないだろう。だから助ける」

 ブグレイロ──。

 インディオをブグレ──猿に由来する蔑称──と呼ぶインディオ・ハンターだ。三十年前、ブラジル政府が調査した結果、ブグレイロが無抵抗なインディオを全裸で逆さ吊りにして切り刻むなど、残虐にさつりくしていることが判明した。

「我々は大昔から侵略者と戦ってきた」

 チュチャカブはしわがれた声で淡々と語った。

 一五〇〇年ごろ、ブラジルに到着したポルトガル人は、野生の大木『ブラジル木パウ・ブラジル』を輸出品とした。幹を砕いて煮ると、毛織物用の真っ赤な染料が取れるのだ。だが、木が堅くて伐採は大変だし、森の中では家畜を使えず、運搬も困難を極めた。白人は重労働を投げ出し、先住民に鉄製の斧や鎌などを報酬として与えて働かせることにした。

 インディオは最初こそ文明社会の農具に感動し、歓迎したが、現実は残酷だった。鞭や銃で追い立てられ、死ぬまでこき使われたのだ。不遇に耐え兼ねて反乱を起こすと、ポルトガル人を襲った罪で植民地政府から制裁された。奴隷にされたのだ。白人の騎馬軍は剣とマスケット銃で武装しており、弓と槍では勝ち目がなかった。労働を拒否した者は生きたまま焼き殺された。

「白人は我々の祖先を欺き、奴隷にした。同盟を結ぼうなどと笑顔で擦り寄り、武器を捨てたとたん捕らえられて殺されたのだ」

 百数十万人いたインディオは、ポルトガル人が来てからのわずか半世紀で一万人まで減ったという。虐殺だけでなく病気も一因だ。文明から離れて暮らす彼らは免疫がなく、外の人間が持ち込んだハシカ、おたふく風邪、天然痘、流感で大勢が死亡した。

 現在は二百部族、三十万人ほどが生存していると聞く。

「我々の森を奪いたい侵略者たちは、〝呪われた服〟を木に吊るしたのだ。触れた者は次々に倒れ、苦しみ、息絶えた」

 白人は邪魔な部族を取り除くため、ハシカや天然痘などの感染症にかかった病人の衣服を森に吊るし、細菌攻撃を行ったのだ。しかも、肝心のインディオ保護局は腐敗しており、一九六〇年ごろまで率先して毒殺、虐殺、売春の強制を行っていた。そんな経緯があり、国立インディオ財団FUNAIが設立された。

 チュチャカブは悲しげな表情をしていた。

「外の人間は森を切り倒し、焼き、殺してしまう。それは間違いだ。我々は全てを森から得る。弓も籠も小屋も薬も作物も、全て森の恵みなのだ。森を傷つけてはならない」

 数人のインディオが現れた。寝かされたジュリアを取り囲むと、両手の指を鉤爪のように折り曲げ、腕を上下させながら一斉に呪文を唱えはじめた。黄ばんだ歯を剝き出している。体内から絞り出す声の合唱は、聞く者の魂を鷲摑みにする。

 とうか。

「ありがとうございます。こうして迎え入れてもらえるとは思っていませんでした」

 チュチャカブは祈りを横目で見ながら答えた。

「我々は外の人間との関係や文明を拒絶しているわけではない。我々を騙し、利用し、殺す者たちから身を守っているのだ」

「はい」

「我々は、ジュマ族やジャカレ族を皆殺しにしたムンドゥルク族とは違うし、彼らのように殺害した敵の生首を小屋の周りに飾り立てる習慣もない。そもそもそんな争いも習慣も私が生まれる前の話だ。我々は、森と寄り添って静かに生きているだけなのだ」

 三浦は理解を示してうなずいた。

 顔を向けると、腹が丸く膨らんだインディオの女が歩いていた。上半身裸で色黒の乳房が垂れている。妊婦は森へ向かった。

「妊娠していても森へ仕事に?」

 好奇心から質問した。

 チュチャカブは「いや」と首を横に振った。

「仕事ではない。出産だ」

「出産?」

「うむ。出産は森でする。森の精に守ってもらうためだ。ところで、客人。こんな森深くまで、なぜ──?」

 三浦は正直に答えるべきか躊躇した。

奇跡の百合ミラクルリリー〟を探してやって来た、と答えたら、自然の破壊者と同一視されるかもしれない。

 だが、全くの噓を語るのも難しかった。

「僕は──日本人の植物学者です。アマゾンの生態系を研究しています」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る