第5回ー6

 チュチャカブはわずかに目を細め、少し間を置いてから「うむ……」とうなずいた。

「しかし、同行者とはぐれて、取り残されてしまったんです」

「同行者はどこへ行った? 一人か?」

「いえ、三人です。セリンゲイロの集落を目指しました」

「セリンゲイロ──か」

 チュチャカブの眼差しに敵意のような感情が入り込んだのは気のせいだろうか。

「何か?」

 チュチャカブは眉間に皺を刻んでいた。

「……いや、セリンゲイロと敵対していたのは昔のことだ。遺恨はない」

「セリンゲイロと対立していたんですか」

「領地争いがあった。だが近年は、森に住む者同士、協力して牧場主や伐採作業員の横暴に立ち向かおう、という考え方に変わっておる。何にせよ、連れが快復するまで滞在するとよい」

「ありがとうございます」

 夜になると、食事を振る舞われた。水豚と呼ばれるカピバラ──体長一メートル、体重五十キロもある世界最大のげつ類──の肉だ。食べごたえがあった。

 生き延びられた実感を覚えると、改めて沙穂の顔が脳裏に浮かび上がってきた。

「ところで──一つお訊きしてもいいですか?」

 チュチャカブは「うむ」と三浦に顔を向けた。

「日本人の女性が訪ねてきたことはありませんか?」

「女性──?」

「はい」

 三浦はかばんから一枚のスナップ写真を取り出し、差し出した。そこにはあんどう沙穂が写っている。黒髪のロングヘアで、その隙間からルビーのイヤリングが光っていた。銀縁眼鏡の奥の瞳には知性のきらめきがある。

 チュチャカブは写真をじっと凝視していた。

「彼女は言語学者です。三ヵ月前にこのアマゾンに入って──」三浦は唇を嚙み締めた。「消息を絶ちました」

 三ヵ月間、音沙汰がなく、彼女の友人知人、同僚たちに話を聞いても彼女は帰国していなかった。

 研究者のフィールドワークが数ヵ月に及ぶことも珍しくないとはいえ、メールで安否を確認しても返信が一切ない状況では不安が尽きなかった。

 アマゾンのど真ん中だからメールの送受信ができない可能性はある。しかし、大密林では長期滞在できる場所もかぎられているから、いつまでも森の中に入っているとは思えない。

 彼女は一体どこにいるのか。

 無事なのか、それとも──。

 彼女とは別れてからも良好な友人関係を続けていた。熱っぽく語ってくれた話を覚えている。

「──〝普遍文法〟って考え方、分かる?」

「いや」

「要するに〝言語本能説〟のこと。人間は生まれながらにして文法が〝ゲノム〟に組み込まれているから、遺伝子継承物である言語を獲得できる、って考え方なの」

「言語でこれだけ複雑にコミュニケーションを取れるのは人間だけだし、一理ある気もするけど、言語は後天的に学ぶものじゃないかな。日本語、英語、スペイン語、中国語、韓国語、ポルトガル語、フランス語──。人は基本的に生まれた国の言語とか、両親が喋る言語を学んで話せるようになる。僕が英語とポルトガル語を身につけたのは後天的だよ。〝普遍文法〟って考え方が正しいなら、アメリカ人は英語、日本人は日本語、中国人は中国語の〝ゲノム〟を備えて生まれてくることになる。人種と違って国籍なんて、人間が決めているだけだから、白人でも日本で生まれて日本語を喋る両親に育てられたら日本語を喋るよ」

「そのとおり。でも、〝普遍文法〟という考え方では、人間が最終的にどの言語を身につけるとしても、本質的には同じことで、実はあらゆる言語は表面上、単語や音体系が異なったとしても、基本的構成要素は変わらない、っていうの」

「世界じゅうの数千の言語は根底にある文法が共通している、ってこと?」

「そうなの。生まれたときから〝普遍文法〟を習得している人間は、後は、どの言語を身につけるか環境によって決定するだけ──ってこと」

「言語学者としての見解?」

「私は懐疑的な立場。たとえば、オーストリアの動物行動学者カール・フォン・フリッシュは、ミツバチの〝尻振りダンス〟を発見して、後にノーベル賞を受賞した」

「有名な情報伝達手段だね」

 ミツバチは蜜源を発見すると、巣に戻り、ダンスで仲間に場所を伝える。円を描くようにダンスしたら蜜源が近く──六メートル以内──にあることを示し、三日月形にダンスしたら六メートルから十八メートルのあいだにあることを示し、八の字にダンスしたら十八メートル以上離れていることを示している、という研究がある。

「そう」沙穂が言った。「ダンスの頻度でも情報がさらに細かく区別されてるっていうの。こういうコミュニケーションは人間の言語の特性と似てる」

 三浦は同意してうなずいた。

 沙穂は続けた。

「高度な情報伝達手段を持っているのはミツバチだけじゃないの。アフリカの南部や東部に棲んでいるベルベットモンキーは、独特の警戒音で捕食者の存在を仲間に伝える。捕食者が蛇か豹か鷲かによって警戒音が異なるの。警戒音を聞いた仲間は、その種類によってちゃんと適切な回避行動をとる」

「そういう話を聞くと、〝言語本能説〟もあながち突飛な論とは思えなくなるね。生物には進化の過程でそれぞれ特性に沿ったコミュニケーション能力を生来的に獲得できる──」

「でも、動物や昆虫のこういうコミュニケーションは学習して身につけるものじゃないけど、人間の言語は学ばなきゃ、使えない。アマゾンの未接触部族の言語を研究したら、〝言語本能説〟に答えが出せるかもしれない」

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