第5回ー7

 沙穂は言語学に文化人類学のアプローチを取り入れていた。とりわけ関心を抱いていたのは、先住民の言語だった。

「世界の言語はこの五百年間で半減して、今は六千から七千。しかも、今後、百年間でさらに半減すると言われてるの」

「絶滅していくのは植物だけじゃないんだね」

「言語が失われていく理由の多くは、その言語を喋る集団が絶滅したから。ヨーロッパ人がもたらした伝染病で先住民が絶滅したり、虐殺されて絶滅したり──。時代に取り残された先住民が社会に溶け込めるよう教育を施す、なんて押しつけで一方的に言語の変更を強いられて、失われた例も多々」

「欧米の人間が先住民に英語を強制するようなものだね」

「そう。そこには、先住民の言語が先進国の言語に比べて劣っていると見なしている、いわゆる〝文明人〟の傲慢さがある。でもね、言語って文化そのものだから、失われることは大きな損失なの。先進国の価値観で安易に奪っていいものじゃない。九二年の国際言語学者会議で、言語の損失を危惧する宣言が出されてる」

「言語には歴史と文化がある、ってことか」

「言語にはその集団の価値観や思想、家族観、死生観──。あらゆるものが含まれてる。たとえば、英語の一人称は単数形だと『I』だけだし、スペイン語だと『Yo』だけでしょ。でも、日本語には一人称が数多くて、『私』『俺』『僕』『あたし』『うち』『わし』『わい』『自分』『拙者』──と性別や立場で使い分けたりする。最近は性別で一人称を区別しない欧米の言語が称賛されて、日本語でも一人称を統一すべき、なんて主張も目にするけど、多くの言語はこうして欧米人の価値観による〝正しさ〟で奪われ、消されてきたの」

「一人称一つでも大事にしなきゃ、ってことか」

「日本語にこれだけの一人称が生まれた文化を追究してみると、それだけで論文が何本も書ける」

「日本語は雨や色の表現も豊かだね」

「そうなの。言語の表現からその集団の文化や歴史をひもといていける。それが言語学の面白さだと私は思ってる」

「畑違いの分野だけど、興味が出てきたな」

「でしょう?」

 沙穂はにっこりと笑った。

 三浦は釣られて緩めそうになった表情を引き締めた。

「だからアマゾンへ?」

「ブラジルの先住民の半数はアマゾンで暮らしてる。現在の部族数は三百ほどと言われてるけど、これからどんどん減っていくと思う。私は失われていく言語を守りたいの」

「でも、心配だよ。文明とかけ離れた場所だし、予想外の何かが起こっても救助も呼べない」

 心配を伝えたものの、沙穂の決意は固く、一ヵ月後にブラジルへ旅立った。

 そして──消息不明。

 すぐにでも彼女を捜しにアマゾンへ飛びたかった。だが、アメリカの大学で学生たちに教えている身で、身勝手なことはできなかった。不安に胸を搔きむしられる毎日──。

 彼女の研究室を訪ねると、助手の女性が同じく心配していて、話を聞くことができた。

 沙穂はアマゾンの幻の未接触部族、シナイ族に関心を抱いていたという。

「彼女が追っていたシナイ族の手がかり、手帳に纏めさせてもらっていいですか?」

 助手の女性は「もちろんです」とうなずき、「教授が参照されていた文献、全てご用意します」と専門書を並べてくれた。丸一日かけて内容を精査し、特に重要だと思しき箇所は手帳に書き記した。

 とはいえ、彼女を捜しにアマゾンの密林へ向かうのは現実的ではなかった。

 アメリカの大手製薬会社からアマゾンへの同行を要請されたのは、そんなときだった。〝奇跡の百合ミラクルリリー〟を探す隊に植物学者としての専門知識が必要で、声がかかったのだ。

 願ってもない話だった。植物学者として〝奇跡の百合ミラクルリリー〟の存在を鵜吞みにしているわけではなく、ただただ、沙穂の行方に関する手がかりを得る好機と考えた。

 話を聞いた大学も許可をくれたので、二つ返事でアマゾンへやって来た。

 だが──。

 彼女がシナイ族の情報源として記していた〝マナウスの物知りじいさん〟の異名を持つマテウスに会って情報を得ようとしたら、彼は殺害されてしまっていた。そして──手帳を狙う二人組が公衆トイレに現れた。

 偶然とは思えない。

 一体なぜ──。

 あの二人組は手帳にシナイ族の情報が書かれていると知って狙ったのか、〝奇跡の百合ミラクルリリー〟の情報があると思って狙ったのか。

 三浦はウエストポーチから手帳を取り出そうとした。

 手帳が──消えていた。

 三浦は戸惑い、ウエストポーチの中を漁った。財布にパスポートにペン類──。

 手帳は見当たらない。

 なぜ?

 陸に上がった後、手帳が濡れていないか調べた。ビニール袋に入れていたから無事だった。そのときはたしかに持っていた。ウエストポーチに戻したはずなのに──。

 いつ消えたのか。

 なぜ消えたのか。

 肌身離さず持っていたから、就寝中に誰かに抜き取られたとしか思えない。

 そうだとすれば、隊の中の誰かが犯人だ。

 手帳の中身はほとんど頭に入っているとはいえ、気づかないうちに盗まれているという事実は薄気味悪かった。

 だが、今そんなことを考えてもどうにもならない。

 三浦は思考を放棄した。

 樹冠に空が遮られている森の中とは違い、切り開かれた集落では、黒い薄布を一枚一枚重ねていくようにゆっくり夜が深まっていく。

 チュチャカブが「今夜はあそこで眠るといい」と言った。

 木と木のあいだにハンモックが吊るされている。三浦は礼を言い、その上に寝転がった。

 ハンモックを使わない数人のインディオは焚き火の周りに集まり、灰を全身にまぶして地面に横たわった。ダニよけだろう。

 目を閉じると、森の子守歌に誘われ、疲労こんぱいの体はあっと言う間に睡魔に屈した。

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