第5回ー3

 高橋は言われるまま隣に座った。

 ゴルドは両腕を太もものあいだに垂らし、闇を見据えた。黒いダルマのような輪郭が鎮座している。

「……俺らはな、だまされることにうんざりしてるんだ」

 高橋は黙っていた。自責の念を拳の中に握り締める。

「俺が生まれたころは第二次世界大戦の真っ只中でな……」ゴルドは淡々と語りだした。「東南アジアでゴムが栽培されはじめてからというもの、ブラジルの天然ゴムの価値は年々下がっていたが、戦争が起きて状況が変わった。お前の国が東南アジアを占拠したからだ。それで連合国側はタイヤに使うゴムに困るようになった」

 ゴルドが説明した。

 米国は昔からゴムを必要としていた。一九二四年には、有名なフォード社がブラジル政府から百万ヘクタールの土地を買い、ゴム農園を作って三百万本のゴムの木を植えたほどだ。だが、雨期の大雨で表土が流され、マラリアで労働者が大勢病死した。何より、ゴムの木は自然の分布よりも密集させると、病害虫の餌食になる。結局、ゴム農園は閉鎖されてしまった。

「アメリカは、ブラジルから安定した価格でゴムを買うと約束した。戦争の末期にゃ、採取者を募集するポスターが町のあちこちに貼られたもんさ。〝我々も戦おう。連合国軍のためにゴムを集めよう〟ってな。ゴムの木にはゴムの塊がぶら下がっている、なんて馬鹿げた噂も囁かれた。親父は謳い文句を信じて徴募に応じたよ。船でアマゾン川を何日も下ってな。だが、森に着いて現実を思い知らされた。ゴムの生る木なんてどこにも存在しねえ。ゴムの木を傷つけると、ポタポタと樹液がしたたるんだ。半日溜めたらようやくカップ一杯。誰もが悟ったよ。俺らは一生、緑の地獄に囚われてしまった、と。大勢が熱病や疲労で死んだ。お袋もそのときに死んだ。政府に騙され、採取地のボスに騙され……。俺らセリンゲイロは昔から使い捨てのくわみてえに扱われてきた。いや、当時は鍬のほうが長持ちしたな。半年で五人の手に握られた鍬だってあった」

 日本人移民の人生と同じだ。日本政府に騙され、異国の辺境に棄てられた移民たち──。

 苦しみの記憶が膨れ上がった。だが体が過去を拒絶し、再び脳の奥へ沈んでいく。

「……悪かった。俺が間違ってた。不正に協力するべきじゃなかった」

 ゴルドが初めてこっちを向いた。薄闇の中で視線が絡まった。月明かりの燐光を吸収した黒い瞳は、緑っぽく光っている。

「俺たちの仲間だっていうなら、正直になれ。信頼で応えろ。噓で仲間を欺くな。絶対に」

 ゴルドは立ち上がると、高橋の肩を軽く叩き、闇の中に消えた。


 翌日の夕方になると、商船が停泊する川岸に一人で戻った。アラグァイア川に夕日が溶け込み、川面が赤茶色に染まっている。

 ジョアキンは川岸で商船を見つめていた。

 高橋は昨日の気まずさを押し殺し、勇気を出して話しかけた。

「……行くのか?」

 ジョアキンは振り返らなかった。商船から目を逸らさない。

「俺は──」

 ジョアキンは言葉を切った。

 彼が森を出るなら自分たち家族もいずれ──。そう思う。ジョアキンが一歩を踏み出せば、前に進む勇気を貰える。

「乗るのか、乗らないのか」船員は目を神経質そうに細めている。「出発時刻だ」

 ジョアキンはタラップに右足をかけた。しかし、そのままだった。二歩目は踏み出さない。

 森の中でホエザルが吠えている。

 ジョアキンが足を引くと、船員は肩をすくめ、タラップを片付けた。商船が出発した。

 夕日の下、ジョアキンは川岸に立ち、小さくなっていく商船を見つめ続けていた。

 やはり森の人間は森を出られないのか。

「本当によかったのか?」

 ジョアキンが振り返った。瞳には暮れゆく夕日と同じ哀切の色がちらついている。

「行きたかったけど、町は──遠すぎる」気恥ずかしさを誤魔化すように再び背を向けた。「俺はゴムの切り方しか知らないんだ。町の女は幸せにできない」



 熱帯雨林のど真ん中に取り残されて丸一日──。

 うらは簡易テントを覗き込み、ジュリアの様子を窺った。熱病患者のように汗まみれの顔でうなされている。

 呼びかけても彼女は反応しなかった。瞳は虚ろだ。

 ここまで急激に悪化するとは──一体何の病気だ? アマゾンには病原菌を媒介する微生物が無数に生息している。未知の病かもしれない。

 テントの隣では、鳥の糞から発芽した『木殺しの木マタ・パウ』が巨木を締めつけ、養分を運ぶ管を潰して枯死させていた。

 森のど真ん中でどうすればいいのか。

 絶望感に打ちのめされる。

 ほとんどの装備はクリフォードたちが持って行ってしまった。残された食料は早くも尽きそうになっている。病気の彼女を抱えた状態では身動きが取れない。

 緩慢な死を待つのみ──。

 三浦は拳を握り締めた。

 志半ばで死ねない。

 だが、一体どうすればいいのか。

 ──。

 頭の中に浮かび上がるのは元恋人の顔だった。彼女に再会するまでは死ねない。

 クリフォードたちはセリンゲイロの集落にたどり着いただろうか。安全を確保してから戻ってきてくれたら──。

 淡い希望に縋らねばならないほど状況は絶望的だった。ジュリアの症状が回復の兆しを見せることはなく、刻一刻と悪化の一途をたどっている。

 唯一の抗生物質も効果があるようには思えない。

 そのときだった。突如、がいらしき重低音が密林に木霊した。呼応するように森全体が意志を持ったように静まり返った。ホエザルやアリドリの鳴き声すら消えた。

 今度は別の方角から法螺貝を吹く音がした。それは四方八方に広がった。合図めいた重低音に取り囲まれていると、鼓膜を直接揺さぶられている気分になる。

 三浦は周囲を見回した。草葉とつたが揺れ動き、深緑の壁を裂くようにして人影が現れた。三つ、四つ、五つ、六つ──。

 先住民インデイオだ。

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