第5回ー2
子鹿の頭が反り返り、横倒しになった。四肢が
森の芳香を搔き消すほどの硝煙のにおいが漂っている。
「子鹿まで殺すことは……」
セルジオは猟銃を肩に掛け、両手で母鹿と子鹿を取り上げた。五指は引っこ抜いた枯れ木の根っこを連想させられる。
「母鹿を仕留めた以上、見逃しても蛇やコンドルに食われるだけだ。一発で楽にしてやるのが慈悲であろう」
飢えていても子や子連れの動物は殺さない、というのが森の人間の不文律だった。少なくとも今までに出会った人々はそうだった。だが、セルジオは──
「さあさあ、わしの猟場から立ち去ってくれ」
セルジオは二匹の鹿を掲げて揺らした。
「行こう」
高橋は息子を促し、ゴムの木に切り込みを入れて回った。夕方に回収し、小屋で
ゴム板が出来上がると、両肩に担ぎ、北にある倉庫へ向かった。開けっ放しの入り口を抜け、中に入った。ゴムの厚板や塊が所狭しと山積みになっている。
半分近くが埋まった倉庫の奥には、イタリア系ブラジル人のボスが待っていた。刑務所の看守はきっとこんな目だろう。刑務作業に従事する囚人を監視する目だ。
高橋は自分のゴム板を計量すると、代金を受け取ってから帳簿係の任務に就いた。
一人目のセリンゲイロが五つのゴム板を順に秤に載せる。ボスはゴムの重さと質を確認した。
「千五百三十グラム」
本当は合計千六百五十グラムだった。だが、計算ができないセリンゲイロたちは、誤魔化されていることに気づかない。
高橋は帳簿に記載しながら歯を
しばらく〝正しい計算式〟で帳簿をつけてくれたら、町での仕事を紹介してやる──。
密約を交わしてから約一ヵ月。値が落ちているからゴムの売買を続けていくには仕方がない、と言われ、ボスの不正を見逃してきた。だが、今は後悔している。安値に肩を落とす仲間たち──。卑劣な裏切り者に落ちぶれてしまった。
高橋は計量のあいだじゅう、何度も口を開こうとした。
計算が間違っている、本当はもっと量があるんだ──。
だが、森の生活を抜け出すチャンスと天秤にかけ、唇は縫いつけられていた。次々に計量が終わっていく。
長身瘦軀のセリンゲイロが四つのゴム板を順に載せた。腕組みして顎を持ち上げ、ボスを見つめる。
「千八百三十グラム」
高橋は量を告げると、ボスの言い値を帳簿に書き留めた。そのとき、長身瘦軀のセリンゲイロが唇の片端を吊り上げた。
「小便でも混じったゴムだったか、え? それはないだろ」
「……質が少し悪い」ボスが高圧的に答える。「多少の値引きは諦めろ」
「質ねえ」長身瘦軀のセリンゲイロはあざ笑った。「腐ったトマトみてえな脳みそになっちまったのか? 計算が狂ってるぞ、セニョール」細かな数字が書き込まれた紙切れを突き出す。「四つのゴムを足したら二千六十グラムのはずだ。あんたが来る前に秤を借りて計算した」
高橋は拳を握り締めた。拳の中は汗でぬめっていた。
「変だと思ってたんだ。最近はやけに目算より少ない気がしてな。能なしの秤はゴムを載せる時間帯で基準が変わるのか、え?」
セリンゲイロたちの表情が変わり、全員がボスを
怒気を
「おいっ、媚売りの日本人。お前は寄生植物よりたちが悪い。仲間のふりした裏切り者め。知ってやがったんだろ」
他のセリンゲイロの視線が集中した。意外にも彼らの眼差しに怒りはなかった。あるのは、ただ、信頼して帳簿係を任せた人間に裏切られた失望だけだ。
買値を下げなければゴムそのものが売れなくなる──。そう言われ、仲間の生活のために黙認していた、などと弁解しても無意味だろう。町の仕事という〝報酬〟が約束されていた時点で裏切りだ。
セリンゲイロたちは首を振ると、計量前のゴム板を無造作に放り投げ、倉庫を出て行った。親友のジョアキンすら無言で立ち去った。二人きりになると、ボスは腰に手を当てて嘆息した。
「ゴムの計量と積み上げを手伝え、ジャポネース」
高橋は後悔を嚙み締めながらゴムを秤に載せ、正しい重量と金額を帳簿に記録していった。
計量はガラス窓が闇夜に黒く染まるまで続いた。
突然、重い足音と共に太っちょのゴルドが駆け込んできた。ゴムの厚板を脇に抱え、突き出た腹を揺らしている。
「遅れちまった。頼むよ、ボス」
ゴルドが息を弾ませながら黄褐色の厚板を秤に載せた。先ほどの騒動を知らないのだろう。申しわけなさそうに頭を搔いている。
「……買い取れんな。色も悪い。明らかなビスコイトじゃないか」
ビスコイト──。ビスケットを意味するポルトガル語だ。質の悪いゴムはそう呼ばれている。
「それはねえだろ。半値でも構わないんだ」
「こんな粗悪品、貧乏人のサンダルくらいにしか利用できん。買い取ってほしけりゃ、上質のゴムを採って来い」
「……カップに水が混ざってたんだ。俺が悪いんじゃねえ」
「今日は雨など降っていない」
「きっと例の牧場主の仕業だ。アンドラーデだ。嫌がらせで水を混ぜたんだよ」
「理由など関係ない。ゴムを持って帰れ」
仲間の信頼を失った今、帳簿係は今日が最後になるだろう。高橋は帳簿のゴルドの欄に『ビスコイト ×』と記載した。
帳簿を閉じて倉庫を出る。集落は夜の衣に包まれ、樹木も畑も高床式の小屋も黒い輪郭となっていた。動いているのは、風にそよぐ草葉と行き交う人の影だけだ。セリンゲイロたちの浅黒い肌は、闇に溶け込んでいる。
ゴルドが売れなかったゴム板を抱えたまま出てきた。
「何か様子が変じゃねえか? みんな、妙にピリピリしてやがる」
隠しても遅かれ早かれ知られるだろう。
高橋は息を吐くと、事情を説明した。ボスの口車に乗せられて計量の不正を見逃し、それがバレた、と。
「……そいつはまずかったな、ユウジロウ」ゴルドは小屋の横にある倒木に腰を下ろし、隣を
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