第6回ー7

「すまね、すまね、すまね……」野澤は紙幣を握り締めたまま、壁際まで後ずさった。「すまね、すまね」

「謝られても分からん」

「下の娘がアメーバ赤痢で……だから医者に診せる金が……」

 野澤は涙をボロボロとこぼしていた。鼻水で鼻の下がてかっている。

「気の毒だが、私たち家族もかつかつなんだ」

「すまね、すまね……。どうしても金が必要なんだべさ。おらたちは家族で逃げなきゃなんね」

 野澤がズボンの腰に手を回した。ベルトに鎌が差してある。

 父は彼の手の動きを注視していた。野澤は鎌の柄を握ったまま彫像になっている。汗が一滴、二滴、額から滲み、鼻筋を伝う。気が張り詰め、今にも破裂しそうだった。

 野澤が一歩前に出たとき、父が言った。

「行け」

 野澤が驚いたように目をしばたたいた。父が通り道を空けた。

「……すまね、すまね。高橋さん、本当にすまね」

 彼は大型の獣を前にした猫のように一歩、二歩、警戒がちに進み、それから小屋を駆け出た。

 二人きりになると、父がぽつりと言った。

「明日を生きるには今日を生きねばならん。そのためには希望がいる。明日を信じられる希望が。たぶん、野澤さんはその希望が見えなかったのだと思う。絶望の中で光を見つけようと思ったら、金が必要だった。そういうことなのだ」父は太い眉を寄せた。「まあ、たしかに裏切られた気はした。だが、彼も追い詰められて家族のためにしたことだし、大の男が大粒の涙をぼろぼろ流しながら謝る姿を見たら、何も言えんかった」

 その日からますます生活が苦しくなった。

 そして──。

 ある雨季の夜だった。

 雨が激しくなり、雨粒の乱打で板張りの屋根がきしんでいた。戸の下の隙間から雨水が染み入り、床が濡れている。

「畑、大丈夫かな……」

 勇二郎は父に訊いた。水浸しになって畑が駄目になれば、パトロンに借金を返せなくなる。

 父は眉間に縦皺を作っていた。やがて雨合羽を羽織ると、懐中電灯を握り締めた。

「お前たちは母ちゃんのそばにいろ。俺は畑を見てくる」

 父が戸を開けると、物凄い風雨が吹き込んできた。卓上の帳簿が鳥の羽ばたきのような音を立ててめくれてゆく。

 外は雨の銀幕に霞んでいた。父の白い雨合羽は、溶け込むように消えた。

 夜が明けても父は帰らなかった。

 勇二郎と兄は隣の小屋の戸を叩いた。事情を説明し、土砂降りの雨の中、数人の日本人と父の捜索に向かった。

 雨合羽を打つ雨粒の音のせいで互いの声も聞こえない。勇二郎は父を呼びながら歩いた。ぬかるんだ泥土に長靴が沈み、持ち上げるたび靴底に吸いつく。

 森を抜けたとたん、啞然とした。ガマ川が氾濫していた。波が互いにぶつかり、跳ね上がり、逆巻いて畑を飲み込んでいた。

「こりゃひでえ」日本人移民の一人がかぶりを振った。「これじゃ畑は全滅だ」

 勇二郎は父を捜して畑に向かおうとした。腕が後方に引かれ、肩が抜けそうになった。振り返ると、日本人移民の一人に摑まれていた。指が手首に食い込んでいる。

「死にたいんか。川に飲まれるぞ!」

 勇二郎は腕をもぎ離そうと暴れた。

「父ちゃんが……父ちゃんが……」

 肩の関節が外れていることに気づいたのは、声がれ、抵抗の力が尽きたときだった。

 一週間経っても父は見つからなかった。


 男手を失い、家族三人で仕事をするしかなかった。だが、それも長くは続かなかった。

 ある日、目覚めると、兄が眠ったままだった。勇二郎は兄を揺さぶった。兄の眉間には縦皺が刻まれており、脂汗が滲んでいる。口から苦しげな息が漏れた。

 額に手のひらを当てると、火傷しそうだった。思わず手を離した。兄は意識もうろうとしている。

 遅れて目を開けた母が異変に気づき、兄に取りすがった。兄がうわ言のように漏らす。

「寒い……冬みたいだ……」

 マラリアだ──。

 そう確信した。同胞たちが苦しむ姿を何度も見てきたから分かる。四十八時間ごとに高熱を発する『三日熱マラリア』だ。

 医者に診せるには船で町まで行かねばならない。だが、肝心の船は通らない。

 勇二郎は母と顔を見合わせた。

「薬を貰ってくるからね」

 母は帳面を取り上げ、着の身着のままで小屋を駆け出た。勇二郎も追いかけた。五十五町──約六キロの距離を走り、息を切らしながら売店に行った。

「薬をください! 息子がマラリアにかかったんです!」

 鷲鼻の主人が首を傾げた。

「マラリア、マラリア」母は知っている単語を繰り返した。「フエーブリ、フェーブリ。ヘメージオ

 主人は帳面を受け取り、一瞥して首を振った。

「キニーネ、ダメ。スコシ、タリナイ」

 キニーネはマラリアの特効薬だ。

「ヘメージオ。お願いしますポル・フアボール!」

 母は何度も何度も頭を下げた。聞き入れてもらえないと分かるや、誇りも自尊心もかなぐり捨てて土下座した。地べたに額をこすりつけて「ポル・ファボール」と繰り返した。勇二郎も母に倣って土下座した。

 やがて、頭上でため息が聞こえた。顔を上げると、主人が奥に引っ込み、キニーネを持って戻ってきた。指を一本立ててポルトガル語で何か説明し、それから指を三本立てた。

 一日に三回飲めと言っているのだろう、と察しをつけた。

 母は両手で薬を受け取った。

ありがとうオブリございますガード、オブリガード」

 小屋に駆け戻り、兄にキニーネを服用させた。

 翌日の夕方、隣人が小屋を訪ねてきた。赤銅色に日焼けした顔に不精髭が生えている。袖のないシャツの両脇は垢で変色していた。

「高橋さん。聞いたよ、マラリアの薬、持ってるんだって? 少し分けてくれないか。娘が倒れちまって」

 母が困惑顔で訊いた。

「売店で買えないんですか?」

「頼んでも駄目だった。借金ばかりで。今の仕事量じゃ、米一粒だって出せないんだと。少しで構わないんだ。頼むよ」

「……すみません。うちにも余裕がないんです。長男のために必要なんです」

「二日分──いや、一日分でもいい」

「すみません。本当にすみません。一日分でも貴重なんです」

 隣人は唇をみ、黙り込んだ。だが、やがて悄然と踵を返した。小屋を出る直前に振り返る。

「悪いな。無理言っちまった」

「いえ……」

 隣人は去っていった。

 自分たちに非はないと知りながらも、後味が悪かった。

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