第6回ー8

 二日後、母と一緒に小屋を出たとき、雇い主のブラジル人が立ちはだかった。鍔広帽子の下の目は鬼のようにぎょろっと剝かれている。唇を取り囲む口髭を動かして何か喋った。

 日本人監督が通訳した。

「薬を盗んだんじゃないか、と言ってる」

「薬? 薬って何ですか」

「マラリアの薬らしい。昨日、売店から盗まれたそうだ」

 隣人だ──。勇二郎は直感した。

「私じゃありません!」母は首を横に振った。「私はちゃんと購入しました。売店に確認してください!」

 ブラジル人が腰の銃を引き抜き、ポルトガル語をまくし立てた。日本人監督が戸惑いがちに訳す。

「キニーネを欲しがったのはお前しかいないんだ、と。足りなくなったから盗んだのだろう、と言ってる」

「私は知りません!」

 母は必死に否定した。

 ブラジル人は銃をしばらくもてあそんだ後、何かを言ってからホルスターにしまった。分かってくれたのかと思ったら違った。

「帳面を出せ、と」日本人監督が訳した。「薬代は借金にする、倍額の借金にする、と」

「困ります!」母は声を荒らげた。「私じゃないんです」

「しらばくれるな、追い出すぞ、と言っている」

「違うんです。キニーネを盗んだのは──」

 母の頭に浮かんだのは隣人の顔だったかもしれない。

 だが、母は何も言わなかった。

 結局、窃盗の濡れ衣を着せられて入植地を追われてしまった。


 13


 三浦は高橋の語りに耳を傾け続けていた。

「──結局、着の身着のままで放り出され、マラリアで兄も失った」

 高橋は苦渋に満ちた声で話し続けた。

 高橋は母親と牧場で五年働いた後、日本人が働く入植地を転々としたという。転機が訪れたのは一九八五年だ。樹林を伐採して畑を作ろうとし、森の人間たちに止められた。それがセリンゲイロだった。森を傷つけるのは本意ではなかったし、争いもごめんだったから開拓は諦めた。そしてセリンゲイロになった。

「最初こそ、森の生活はそれほど悪くなかった。食べ物は森や川で採れるし、狩猟をしなくても、肉は魚と物々交換すればよかった。集落の女と結婚し、息子も生まれた。だが、年を重ねるにつれ、別の人生が──その日暮らしではない豊かな人生があったのではないか、と考えることが多くなった」

 日系移民の存在については知っていたものの、当時の情勢や各々の事情は何も知らなかった。

 そのようなかんなん辛苦があったとは──。

「……長話をしてしまった」高橋は三浦の目を真っすぐ見つめた。「だが、こうして俺たち一家の苦労話をしたのには、理由があるんだ」

「何です?」

「あんたに頼みがある。あんたたちの目的を達成してからでいい。この集落に戻ってきたら、息子を──ゆうを外の世界に連れて行ってくれないか」

「息子さんを──?」

「前々からずっと考え続けていた。息子には森の外に幸せがあるんじゃないか、と」

「それなら、父親であるあなたが森の外へ連れて出るべきでは?」

 高橋は自嘲するように薄笑みを漏らすと、ふう、と重々しい息を吐いた。

「母はもう歳だし、足腰が弱い。集落を出るのは無理だろう。置いてはいけないし、俺自身、森の外で生きるには時間が足りない。肺をやられてるんだ」

 三浦は目をみはった。

「見たろ。燻蒸小屋で煙を吸い込んでいるうち、セリンゲイロは肺をやられてしまう。だからこそ、息子には同じ道を歩んでほしくない。ゴムの木の切り方を教えたものの、常に葛藤があった。今回、こうして森の外からやって来た人間に出会えたのは、何かの運命かもしれん」

 高橋の瞳にはある種の覚悟があった。

「セリンゲイロとしての生活がいつまでできるか──。ゴムの採取でしか生きられなくなってから森を出ようとしても、手遅れだ。俺は父親として、勇太に祖国の土を踏ませてやりたいんだ。俺や母の祖国──日本の土を」

 縋るような眼差しを受け、自分がアメリカ在住の植物学者だとは明かせなかった。日本に連れて行ったとしても、そこで面倒を見ることができるわけでもない。

「どうか、頼む……」

 高橋は頭を下げた。

「頭を上げてください」三浦は言った。「軽々しく息子さんの人生を預かる約束はできません」

 高橋が苦渋の滲んだ顔を上げた。

「……しかし、僕に力になれることがあるなら、できる範囲で尽力します。今、答えられるのはそのくらいです」

「ありがとう。充分だ。それじゃ、ゆっくりしてくれ」

 高橋は表情の緊張を解くと、小屋を出て行った。

 一人きりになった三浦は、日系移民の存在に思いを馳せた。アマゾンの森深くでセリンゲイロとして生きている高橋一家──。そのセリンゲイロも、今や絶滅危惧種だ。

 動植物だけでなく、様々な存在が絶滅の危機に瀕している。その事実に胸が痛くなった。

 夜になると、集落の女性が運んできてくれた食事で腹を満たし、早めに就寝した。

 尿意を覚え、三浦は目を覚ました。集落の小屋には当然ながら室内にトイレなどはないので、目をこすりながら外に出た。

 小屋の裏側にある草むらに向かおうとしたときだ。女のうめきのような声が耳に入った。

 三浦は立ち止まり、声が聞こえた方角を探した。亡霊の囁き声じみた夜風が吹きすさぶ中、また女の声が聞こえた。

 ジュリアの小屋からだった。

 心配になり、三浦は彼女の小屋に近づいた。丸太を組み合わせてある。正方形の開口部の前に来たとき、中が見えた。木製ベッドの上で蠢く二つの人影があった。女性のシルエットが相手の下半身にまたがり、胸を弾ませながら激しく腰を振り立てている。

 嬌声の合間にジュリアの囁き声が漏れ聞こえた。

「お願い。あいつを殺してほしいの」

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