第4回ー5
三浦は歯を嚙み締めた。
ジュリアの回復のために何日も
だが──。
クリフォードが顎で先を示した。
「さあ、行きましょう、ドクター・ミウラ」
三浦は巨木に寄り掛かるジュリアを
アマゾンのど真ん中の冷徹で容赦のない判断──。病気の人間を置き去りにするという行為が合理的だとしても、そんなものに賛同できるわけがなかった。
「見捨てて行けません」三浦は訴えた。「全員で生きて目的地にたどり着きましょう。あと少しなんでしょう?」
だが、三人の表情は変わらなかった。酷薄な眼差しでジュリアを睨みつけている。
「……ドクター・ミウラ」クリフォードが感情を排した声で言った。「選択肢は二つあります。我々と共に進むか、病気の彼女と残るか──です」
三浦は思わず顔を
足止めを食らいたくない気持ちは理解できる。危険に満ちあふれたアマゾンで過ごす時間が延びれば延びるほど、命に関わる事態に遭遇する可能性が増える。だからといって、目の前の病人を見殺しにするような非人道的なまねはできない。
三浦は小さくかぶりを振った。
クリフォードの瞳に
「……残念ですよ、ドクター・ミウラ」
クリフォードが背を向けた。ロドリゲスとデニスも
三浦は拳を握り締め、遠のいていく──薄暗いジャングルの奥地へ消えていくその背中を見つめているしかなかった。
三人が消えてしまうと、急に孤独を意識した。数十メートルの高さの樹冠から猿の吠え声や鳥の鳴き声が降ってくる。枝葉がこすれ合うざわめきが聞こえてくる。
ぽつりと言葉が聞こえた気がして、三浦はジュリアを見た。へたり込んでいる彼女の唇が動いていた。
三浦は顔を近づけた。
「──行かなくて、いいの?」
弱々しいつぶやき。
「放っておけないでしょう。残して行けばどうなるか、火を見るより明らかです」
ジュリアが力なくほほ笑んだ。
「お人好し……」
「かもしれませんね」三浦は苦笑しながら、リュックサックから抗生物質を取り出した。「効くかどうか分かりませんが、気休めです」
薬を差し出すと、彼女は口に含み、ペットボトルの清涼飲料水で飲み下した。ふう、と熱っぽい息を吐く。
「私の周りにはお人好しが何人か、いた」ジュリアは喘ぎ喘ぎ言った。「でも──」
彼女が現実を否定するようにかぶりを振る。湿った黒髪が額や頰に張りついたが、振り払おうとはしなかった。
「でも──?」
ジュリアは視線を落とし、しばらく黙り込んだ。
三浦は倒木に腰を下ろした。座ることで少し気持ちが落ち着いた。自分自身、歩きっ放しで体力と精神力を削られていたようだ。
彼女と向き合い、その表情を眺める。
「私は──本当は、大学生じゃないの。リオの貧困地区で生きてきたの」
ジュリアは口を開くと、ときおり息を乱しながらも話しはじめた。
太陽に灼かれるリオ・デ・ジャネイロのコパカバーナ海岸には、大勢の人間があふれていた。
ジュリアはまばゆい太陽に目を細めた。産毛もちりちり焦げるような陽光だった。ノースリーブのシャツと色あせたジーンズという恰好だ。
手の甲で額の汗を拭うと、首筋に絡みつく湿った黒髪を肩ごしに放り投げた。履き古した運動靴の底が熱砂に
ジュリアは〝獲物〟を探して浜辺を見回した。
色とりどりのパラソルがあちこちに花開き、紐同然のビキニで尻を丸出しにした女たちが寝そべっている。黒真珠のような上半身を剝き出しにした男たちが歩き回っている。他にはサーフボードを脇に抱えて走っている男や、ビーチサッカーに興じる男、六つに割れた腹筋を晒して跳びはねている男──。そんな中、外国人観光客の姿がちらほら交ざっていた。
観光客らしき白人カップルを見つけると、熱砂を蹴散らして駆け寄った。
「記念写真どう?」ジュリアは英語で話しかけ、ポラロイドカメラを掲げた。「一枚で十五レアル」
男が「カメラは持ってるんだよ」と首を振った。女がウエストポーチから小型のカメラを取り出し、笑顔を見せる。
ジュリアは精一杯困った表情を作った。
「写真、撮れないと今晩食べるものが買えないの」
案の定、男は女と顔を見合わせた。目で、どうする、と訊いている。
「一枚くらい、いいんじゃない?」女が答えた。「スコルを何本か買ったと思えば」
スコルは最も庶民的なビールだ。
「そうこなくっちゃ!」
笑顔で応えつつ、ビール数缶のお金でも私には大切なんだから──と内心で言い返す。観光客の気持ち一つで払える程度の額で必死になる自分が情けなく思える。
ジュリアは二人の写真を撮り、十五レアルを受け取った。
この日は運動靴の中が砂だらけになるまで走り回って客を探し、九十レアル、儲けた。海面が茜色に染まると、コパカバーナ海岸を後にした。
観光客が集まるリオ・デ・ジャネイロにも闇があった。
ファベーラ──。
暴力のにおいがあふれ返るスラム街のことだ。トタンやアルミの屋根の掘っ建て小屋が連なり、丘に張りついている。壁に斜めに立てられた木の棒や、屋根の端から端へ結ばれたロープにシーツやタオル、シャツが干されていた。
ブラジルのどんな町にもファベーラはある。住み着いてしばらく経てば居住権を認められるという法律があるため、路上生活者たちがトタンやブロック廃材を使ってバラックを作る。
坂道には、醬油の染みのような血の跡が残っていた。昨日、五段変速のマウンテンバイクに乗る少年が撃ち殺されたのだ。同じ十歳の少年に。自転車欲しさの犯行だった。
路地では、黒い毛並みの瘦せこけた犬が野菜の芯を
歩いていると、背後から複数の足音が駆けてきた。
ジュリアは首から下げたポラロイドカメラを抱きかかえ、警戒心を張り巡らせた。
リオには二百近いファベーラがあり、その全ては麻薬組織が支配している。ギャングの抗争か強盗か──。
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