第4回ー6

 サッカーボールを抱えた少年とその仲間たちだった。目線と手元を交互に注視する。攻撃性を秘めていないかどうか。ナイフや銃を隠し持っていないかどうか。

 未成年者は殺人を犯しても三年の更生施設暮らしが最高刑だから、ファベーラの子供は生きるために必要なら何でもする。

 少年たちは真横を駆け抜けていった。

 ジュリアは胸を撫で下ろし、歩きはじめた。その瞬間、路地裏の陰から黒い腕が伸び、首の裏に摩擦熱を感じた。紐が千切られ、ポラロイドカメラが引ったくられた。

「あっ。返せ、馬鹿」

 コーンロー──畦のように編んだ髪型──の黒人少年だった。シャツの胸襟から覗くシルバーのネックレスを揺らしてきびすを返し、豹のように走っていく。

待てエスペーレ!」

 必死で追いかけた。見て見ぬふりする混血の集団を押しのけ、息を弾ませながら全力疾走する。黒い背が小さくなっていく。

 解体されたバイクの残骸を避け、路地を曲がった。辺りを見回し、大通りに出た。パトカーが停車しており、制服姿の警察官に泥棒の黒人少年が腕をひねり上げられていた。

 ジュリアは舌打ちした。

 畜生、警官に捕まってしまった──。

 黒人少年は諦め混じりの媚びた薄笑みを浮かべ、何か話していた。警察官は底意地の悪い顔でうなずくと、差し出されたポラロイドカメラをもぎ取った。それを自らの首に掛け、パトカーのボンネットに押しつけた黒人少年の眼前に手のひらを突き出す。

 黒人少年が渡したのは皺くちゃの紙幣だった。『』と囁かれたのだろう。ブラジルには暗に賄賂を要求する言い回しが山ほどある。

 警察官は満足げに笑うと、黒人少年を突き放し、パトカーに乗った。野良犬のうなり声のようなエンジン音を轟かせて走り去る。

 ジュリアは、肘をさすっている黒人少年に歩み寄った。

「あんたのせいで商売道具、なくしちゃったじゃん。盗むんなら観光客からにしてよ。次の日には新しいカメラ買って出歩いてるだろうにさ」

「見てたんならポリ公から取り返せばよかったじゃねえか」

「見返りとか言ってレイプされんのがオチじゃん」

「……悪かったよ」黒人少年は申しわけなさそうに言った。「カメラなんかぶら下げてるから、怖くなってな。ほら、興味本位で撮られた写真が連中に渡ったらやべえだろ」

〝連中〟というのは警察だろう。警官は路上で生活する子供のことを全員犯罪者だと思っており、排除は地域の望みだと信じている。以前テレビで見た元警官は、サンパウロの貧困地域で大勢の〝犯罪者〟を殺した、と得意げに語っていた。

 リオのファベーラに住みはじめた当時、右脚を撃たれた少年を見つけ、声をかけたことがある。

 ──警察には?

 ──行けないよ。だって撃ったの警官だもの。

 ファベーラの人間が一番恐れているのは警察官だ。そして誰もが密かに憧れているのも。

 警察官になれば捕まらずに盗みができるから──。

 十歳に満たない女の子の台詞だった。

 リオには二百近い『死の部隊』が存在している。商店主から金を受け取り、犯罪に手を染める少年たちを殺すのだ。現役警察官や元警察官、犯罪被害者で構成され、大勢に支持されている。

 数年前にアマゾナス州で起きた事件を思い返した。元警察署長の邸宅に強盗に入った少年たちが、後日、皆殺しにされたのだ。犯人は複数の私服警察官だった。

 知事のアマゾニーノは警察の腐敗ぶりを嘆き、州警察を廃止して軍警察に犯罪の取り締まりを任せた。すると、元州警察のメンバーが報復で残虐な事件を起こし、知事の家族を繰り返し脅迫した。

「あんた──」ジュリアは訊いた。「普段は何してんの」

「バス停でピーナッツを売ってる。稼ぎが悪いときに盗むんだ」

「親は?」

「そんなもんいねえよ。俺、クラウジオ。お前は?」

「……ジュリア」

「ジュリアか」クラウジオが白い歯を見せた。「行くとこねえなら俺んとこ来るか?」

「冗談」

「もう怒ってないんだろ」

「勘違いしないでよ。あんたが名乗ったから私も名乗っただけ」

 ジュリアはクラウジオを置き去りにして歩いた。

 半ズボンのブラジル人が木製の脚立に上り、壁を塗っていた。まいがするようなペンキのにおいが鼻をつく。

 路地の片隅には、シャツを着崩した黒人や混血の少年数人がたむろしていた。高級そうな腕時計やバッグを見せびらかし合っている。観光客から盗んだのだろう。

 ジュリアは一瞥しただけで堂々と通り抜けた。品定めする複数の視線が張りついてきたが、無視した。

 ──ふんっ、いくら見てもるもんなんかもうないよ。

 クラウジオが追いついてきた。速足で歩くジュリアに並ぶ。

「なあ、カメラは悪かったよ」

「あっそ」

 トタン屋根の掘っ建て小屋が並ぶ路地を通りすぎる。卑猥な単語が描かれた石壁から金網が延び、その先の広場で裸足の少年たちがサッカーボールを蹴っていた。

 クラウジオが立ち止まり、金網を握り締めた。視線は一人の混血少年に向けられていた。二人、三人、と軽く抜いていく。短いゴムバンドで繫がれているかのように足にボールが吸いついている。

「……ちぇっ。俺のほうがうめえよ」

「あんたもサッカーすんの」

「今はしてねえ。食っていかなきゃなんねえからな」

「そう」

「あのに憧れてボールを蹴ってた時期もあったけどな……」

 カナリヤ色はブラジル代表のユニホームカラーだ。ブラジルでサッカーをしていたら誰もが憧れる。

「──夢はいくら蹴っても絶対ゴールしねえんだよ」

 ジュリアはしばらく彼の横顔を見つめた後、再び歩きだした。クラウジオが追ってくる。どこからかボサノバが流れてきた。ジャズのように知的だが、サンバの情熱的なリズムは弱まっていない。

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