第4回ー7

 道路の角にあるパン屋に入ると、日系の老夫婦が笑顔で迎えてくれた。店は焼きたてのパンの香ばしいにおいに包まれている。

「いらっしゃい」

 ジュリアは金を渡し、パンを買った。視線を感じて振り向くと、クラウジオが入り口から覗き込んでいた。

「ほら、遠慮しないで」

 老婦人がなまりのあるポルトガル語で呼びかけると、クラウジオがためらいがちに入ってきた。

「俺、金ないから」

「……仕方ないねえ」

 老婦人は、ゆで卵サイズのポン・デ・ケージョ──発酵していないチーズとマンジョーカ芋の粉を丸めて焼いたパン──を四つ紙袋に放り込み、差し出した。

「ドウゾ」

 クラウジオは困惑した顔を見せた。日本語の意味が解らなかったからではなく、剝き出しの親切心に戸惑っているからだろう。商店主にとってストリートの子供は『強盗』であり『殺人者』なのだ。助ける対象ではなく、警戒し、時には殺す標的──。

「遠慮しないで」

 老婦人がポルトガル語で言った。

「……オブリガード」

 言い慣れていないせいか、礼の言葉は尻すぼみだった。それでも老婦人は笑顔で応えた。以前聞いた話だと、老夫婦は移民当時ずいぶん貧しい暮らしをしたという。息子を餓死させてしまったらしい。ファベーラの子供と重なるのかもしれない。

 ジュリアはクラウジオと店を出た。

「まったく。私のカメラを奪ってパンまで貰うなんて、図々しいわね」

 クラウジオは当惑したようにうつむいた後、ポン・デ・ケージョを二つ、黙って突き出した。

「いいよ。あんたが貰ったんだから貰っておきなよ」

 彼は迷いを見せてからパンにかぶりついた。二つ目を取り出し、口を開けた状態で固まる。

「どうしたの。食べないの」

「……妹に食わせてやる。ちっこいのが二匹いてな」

 笑みを見せると、白い歯が黒い肌に引き立った。

 そのとき、道路の向こうから薄汚れた服の少年たちが現れた。十人はいるだろう。褐色の肌や黒い肌が横に広がり、道を占拠するように歩いてくる。五歳くらいの子もいた。

 少年の集団はパン屋の前まで来ると、うなずき合った。はじかれたように駆け込み、棚のパンを漁りはじめる。まさに襲撃だった。老婦人の悲鳴が響き渡った。仲間同士で競い合うようにパンを奪い、店を駆け出ていく。

「何してやがる、クソガキ!」

 クラウジオが一人の後ろ襟をわしづかみにし、持ち上げた。少年の脚が宙でペダルを漕ぐように暴れる。

 瞬間──銃声が弾け、クラウジオの胸に朱の花が咲いた。パーマ頭の少年の手に黒光りするリボルバーが握られている。

 ジュリアは悲鳴を上げた。クラウジオが仰向けに倒れると、彼に捕まっていた五歳くらいの少年が腰からリボルバーを抜き、報復の銃弾を二発、三発と撃ち込んだ。血まみれの体が跳ねる。

 頭を下げた通行人たちがあちこちの商店に駆け込むと、びたシャッターが一斉に下ろされた。逆に飛び出してきたのは、パン屋の老人だった。たけぼうきを振り上げ、日本語で怒鳴る。

 少年たちは散り散りに去っていった。残されたのは、大の字になったクラウジオのなきがらだけだった。

 それがファベーラの日常で、自分にできることは何もなかった。常に死が隣に寄り添っていた。

 ジュリアはとぼとぼ歩き、共同住宅に入った。薄板で仕切られたアパートだ。部屋は二つのベッドが占領している。

 自分のベッドに座り込み、クラウジオに思いを馳せた。二人の妹はどうなるのだろう。きっと路上に放り出されるだろう。そして他のストリートの子供たちと同じように、生きられるだけ生きていくのだろう。引ったくりや盗みに手を染めながら──。

 結局、ファベーラの子供に幸せな未来はない。

 ため息をついたとき、ドアが開いた。イレーネだった。黒髪を撫でつけて額を見せており、後ろ髪が海草のように胸まで流れている。桃色のタンクトップや色あせたホットパンツは、ミルクチョコレート色の肌に映えていた。

 左耳が不自由な彼女のこめかみには古傷がある。路上で生活していたころ、警官に水をかけられ、棍棒でこっぴどく殴られたせいだ。目も合わせていないのに、目付きが気に食わないという理由で──。

 五歳年上のルームメイトは強張った顔をしている。

「……あんた、誰かから恨みでも買ったかい?」

「いきなり何の話?」

「ヤバそうな奴らがあんたのこと、嗅ぎ回ってたよ」イレーネは深刻な表情をしていた。「間違いないよ、あんた、狙われてるよ」

「考えすぎでしょ」

「……『死の部隊』かも」単語を口にしただけでも死が訪れる、と脅えているような口調だった。「ヤバいよ、絶対」

「まさか」

「一時的に姿を隠したほうがいいよ」

「大袈裟よ。気のせいだって」

「危機感持ちなよ。さっきもそこで殺人があったんだ」

「十七、八の黒人でしょ。子供の強盗集団に殺されたの」

「違うよ。られたのは十歳くらいのガキだよ。三人。リボルバー持った奴らにバン、バン、バン。額に三発ずつ。『死の部隊』の処刑だね。最近、この辺の店を荒らしてた奴らがやられたんだ」

 殺されたのはクラウジオを殺した少年たちかもしれない。

「狙われたら命がないよ、あんた。連中はプロの集団なんだ。しばらくリオを離れたほうがいいよ」

「そんなの無理。行く当てもお金もないし」

「……そっか。そうだよね」

 イレーネは机の上の虫籠を見つめた。小枝に蝶が止まっている。以前、彼女を外国人が「珍しい蝶だから」とくれたらしい。

「……囚われてどこにも逃げられないあんたみたいだね」イレーネは沈んだ声で言った。「あたしも同じだけど。ファベーラの人間は結局ファベーラから逃れられないんだね……」

 うつな沈黙が降りてきた。

 イレーネが「あっ」と声を上げ、思い出したように皺くちゃの新聞紙を差し出した。

「そういえば、通りで拾ったよ」

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