第4回ー8

 イレーネは新聞などには興味を持っていないのに、ファベーラの子供の死亡記事だけは目ざとく見つけ、拾ってくる。

 ジュリアは新聞を受け取った。フライドチキンを盗んで逃げた七歳の少年が警察官に脚を撃たれ、出血多量で死亡した事件だった。大通りで倒れていたにもかかわらず、長時間放置されていたらしい。

 顔写真には靴の跡がいくつもついていた。少年のあどけない顔は踏みにじられている。

「ファベーラは腐った場所だよ、本当」イレーネがため息を漏らした。「なんだか今日は疲れちゃった。もう寝るよ」

 イレーネがタンクトップを脱いだ。見ると、腹が黒ずんでいた。ミルクチョコレートに焦げ目がついたように──。

「どうしたの、それ。また警官にやられたの?」

 ファベーラでは、路上にいる妊婦の腹を警官が蹴ることがある。犯罪者の子が犯罪者になり、罪もない人々を殺す──と思い込んでいるからだ。汚れた血を絶やしたいのだろう。

 イレーネは「これ?」と腹のアザを撫でた。「警官じゃないよ。ストリートの男に蹴ってもらったんだ」

「まさか──また、?」

「そう。おなかがっきくなってきたから」

 ファベーラで売春する少女のあいだで流行っている堕胎方法だ。ブラジルはキリスト教の国だから中絶は禁じられているし、闇で医者に頼むと大金が必要になるが、誰かに腹を蹴ってもらうだけならタダで簡単に流産できる。

「欲しいときに子供産めなくなるよ」

 二十六歳でもう三度の流産だ。

「……仕方ないじゃないさ」イレーネは悲しげに言った。「腹が膨らんだ女に金を出す客なんているもんか。処女でございますって顔してなきゃ、誰も寄ってこないよ」

「でも──」

「ジュリア。あたしより自分を心配しな。言ったろ。ヤバそうな連中が嗅ぎ回ってるって」

 自分も苦労ばかりで苦しいだろうに、いつも年下のルームメイトを心配してくれる。

 イレーネは両親がいて中学校に行っていたころ、数学が得意で、習った計算式を母親に披露した。頭を撫でる代わりに思い切り張り飛ばされたという。自分自身が文字を読めない劣等感のせいか、娘が自分より頭がいいと思い、見下された気になって手を上げたのだ。

 ──お前みたいなウスノロが算数なんて生意気なんだよ!

 イレーネは母から暴力を受け、父からレイプされ、家を出た。その話をしてくれたとき、彼女は「ファベーラじゃ、別に珍しい話じゃないよ」と笑った。全てを諦めてばかりで、何も期待せずに長年生きてきたせいか、むしろ澄み切った瞳をしていた。

 イレーネは腹のアザを撫でていた。

「大丈夫?」

「……平気だよ。前もしばらく痛かったんだ。寝れば治るよ」

 彼女はホットパンツ一枚でベッドにもぐり込んだ。

 ジュリアは靴とジーンズを脱ぐと、ブラジャーを外し、ノースリーブのシャツとパンツ一枚で隣のベッドに寝転がった。今日は早く寝たい気分だった。クラウジオの死の衝撃も、翌日になれば薄れる。翌々日になれば消える。一週間経てば忘れる。

 意識の手綱を手放そうとしたとき、イレーネの声が耳に入った。重石にのしかかられているようなうめき声だった。

 ジュリアは布団をはねのけ、上半身を起こした。薄闇の中、彼女の影が丸まるようにしてうごめいている。

「どうしたの。ねえ、大丈夫?」

 イレーネが腹を押さえたまま身をよじった。脂汗にまみれた顔が引きゆがんでいる。

「変なんだ……おなかが変なんだ……」イレーネが咳き込み、血が布団に飛び散った。「痛いよ。すごく痛いよ」

 内出血して感染症になったのかもしれない。最悪の場合、内臓が破裂しているかも──。

「すぐ医者を呼んで来るから」ジュリアは急いでジーンズを穿いた。

「……誰も来るもんか。こんなファベーラの奥の奥なんかに」

「うまく説得できるかも」靴を履く。

「無駄だよ。医者に場所を言ったとたん、

 ファベーラに踏み入りたくない医者はどんな言いわけもする。

 イレーネは再び吐血した後、声を絞り出した。

「死ねないよ。まだ死ねないよ。楽しいことだって……全然してないのにさ」

「大丈夫だから」ジュリアは彼女の手を握り締めた。「死なないから」

「……実はさ、やりたいこと、あるんだ、あたし」唇の端から血の筋が垂れている。「お尻を剝き出しにしたビキニ着てさ、ビーチに寝そべってさ、男たちを誘惑してさ……それでさ、その中でとびきりのハンサムの誘いに応じてさ、金を貰わないセックスをするんだ」

「これからだってできるから。だから私が医者を──」

「聞いてよ。それでその男の腕の中で目覚めるんだ。精液を搔き出してるあいだにドアが閉まって、顔を上げたら薄汚い部屋に一人きり……なんてのじゃなくてさ」

「とにかく待ってて!」

 ジュリアは部屋を飛び出ようとした。腕が引っ張られ、つんのめる。振り返ると、イレーネが瞳に切実な不安を滲ませていた。

「駄目だよ、かつに外に出ちゃ……。殺されるよ」

「私は大丈夫だから。心配しないで」

「外に出るなら、そのまま姿を消すべきだよ。あたしのことはいいから……逃げな。戻ってきちゃ、駄目だ」

「馬鹿言わないで。放って逃げられるわけないでしょ」

 ジュリアは彼女の手をもぎ離し、共同住宅から駆け出た。建ち並ぶバラックが闇に覆われ、ひさしが黒い死神のマントに見えた。上半身を剝き出しにした黒人少年が石段に座っている。夜に溶け込む肌の中で目だけが白く輝いていた。

 医者はどこにいるのだろう。分からなかったが、何が何でも探し出し、耳たぶを引っ張ってでも連れて来るつもりだった。

 ジュリアは走った。立ち止まってコルコバードの丘を見上げると、月明かりに照らされた巨大なキリスト像が無表情でファベーラを見下ろしていた。両腕を広げた様は白い十字架に見える。慈悲も奇跡も与えるつもりはないようだった。

 ──神様。

 祈りながら路地を通り抜けたときだった。茶色いカウボーイハットをかぶったひげ面の男二人が立ちはだかった。

「どいてよ。私は急いで──」

 男の腕が伸びてきた。危機感が背筋を駆け抜け、踵を返した。分厚い手のひらが口を包む。腕が胴に巻きつく。

 両脚をばたつかせた瞬間、腹に拳がめり込んだ。息が詰まった。目を剝くと、二発、三発と食らった。

 イレーネが──イレーネが待って──。

 遠のく意識の中で最後に見たのは、大口を開けて待ち構える車のトランクだった。

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