第4回ー4


 7


 アマゾンの奥地はひっそりと寝静まっていた。ときおり、小鳥の鳴き声が聞こえてくる。

 うらはクリフォードの後ろを歩いていた。先頭はロドリゲスとデニスだ。侵入者を飲み込まんばかりに群棲する植物の波が押し寄せている。一帯には霧が這い、ライムをしぼったピンガ──サトウキビの蒸留酒──を通して景色を見ているようだ。

 蚊に刺されたのか、首筋にかゆみがあり、三浦は親指の爪で搔きながら進んだ。

 山刀マチエーテを振るうロドリゲスの背中を睨みつける。

 ──センセイ、俺はあんたの本当の目的を知っているぞ。

 ロドリゲスのささやき声が耳にこびりついている。

 目的──。

『え?』と聞き返しても、ロドリゲスは薄笑みを浮かべたまま何も答えようとはしなかった。

 ハッタリだったのか?

 いや──。

 ハッタリで出てくる言い回しではないだろう。襲ってきた二人組の白人の存在がよみがえる。

 二人組の狙いは〝手帳〟だった。デニスを追ってきた老人の私兵ではない。

 手帳に一体何が記されていると考え、襲ってきたのか。

奇跡の百合ミラクルリリー〟を欲する別勢力なら、リーダーであるクリフォードの鞄を狙うだろう。同行する一介の植物学者の手帳を狙うからには、別の目的があったと考えるほうが自然だ。

 ロドリゲスは何を知っている──?

 三浦はウエストポーチの中にある手帳の存在を意識した。

 誰にも気を許してはいけない。今、自分は人間一人が消えても誰も気にしないアマゾンの密林にいるのだから──。

 草葉を踏みしだく足音が遅れているのに気づき、三浦は立ち止まって振り返った。ジュリアが巨木に手のひらを添え、肩を上下させていた。顔は紅潮しており、額に玉の汗がにじんでいる。熱帯雨林の熱気の中を歩き続けている汗とは少し違う気がした。

 三浦は彼女に歩み寄った。

「大丈夫ですか?」

 ジュリアは巨木に寄り掛かった。

「倒れそうな木を体で支えてる、なんて冗談を言う元気もない」ジュリアは弱々しい笑みを浮かべた。「体がだるい……」

 疲労が溜まっているのだろう。不慣れな大密林を丸二日歩き回り、野営が続いた。

 ジュリアの顔は汗にまみれ、吐く息は熱を帯びていた。

 前方に向き直ると、クリフォードたちは仲間の遅れにも気づかず、蔓草を切り落としながら前進していた。

 三浦は大声でクリフォードたちに呼びかけた。声は樹木群に吸い取られそうだったが、三人の耳に届いたらしく、一斉に振り向いた。デニスが苛立ちを帯びた声で怒鳴る。

「ちんたらしてんじゃねえ! 森のど真ん中で何度目の夜を迎えるつもりだ!」

「彼女が──!」

 三浦はジュリアの額に手のひらを添えた。脂汗がべとっとしていた。高熱が伝わってくる。

「凄い熱です!」

 クリフォードたちが引き返してきた。デニスとロドリゲスはうんざりした顔つきをしている。

「たぶん、疲労が積み重なったんだと思います」三浦は言った。「沼の中を歩いて、何かの感染症にかかった可能性も……」

 デニスが舌打ち交じりに吐き捨てた。

「足手まといな女だ」

「少し休みましょう。無理は禁物です」

 三浦はリュックサックから清涼飲料水のペットボトルを取り出し、キャップを開け、彼女の口元に差し出した。

「水分を摂ったほうがいいです。飲めますか?」

 ジュリアは緩慢な動作で顔を上げ、「ええ」とうなずき、ペットボトルに手を伸ばした。受け取ろうとしたが、細い指の中から滑り落ちる。

「あっ」

 土の上でペットボトルの液体が流れ出ている。

 三浦は慌ててペットボトルを取り上げた。

「落ち着いて。慌てなくても大丈夫ですから」

「……ありがとう」

 ジュリアは辛うじて浮かべたようなほほ笑みを作ると、今度はしっかりペットボトルを受け取り、液体を口に含んだ。なめらかなカーブを描く喉がえんに合わせて上下する。

 三浦は三人に向き直った。

「この状態で進むのは無理です。休みましょう」

「俺たちに休んでる時間はねえ」デニスが冷徹な口調で言った。「足を引っ張るな」

 ジュリアが顔を持ち上げた。

「少し休めば──歩けるから」

 その声は弱々しく、今にも消えてなくなりそうだった。

「休みましょう。僕らも歩きっぱなしでは体力が持ちません。全員で休憩して、様子を見ながら出発すべきです」

「こんなアマゾンのど真ん中で休憩なんかできるか」デニスが樹木が緊密な熱帯雨林を見回した。「気も抜けねえ」

「しかし、このままだと彼女が歩けません」

 デニスが虫を踏み潰すようなまなしで彼女を見た。

「高熱出してんなら、一日や二日じゃ回復しねえだろ。違うか?」

「それはそうかもしれませんが……」

「足手まといは置いていきゃいい」

「何を馬鹿なことを──。仲間を見捨てるんですか」

「付いてきたのはその女の意思だろ。俺らは頼んでねえ。勝手に押しかけて、高熱でダウン? そんなもん、自己責任じゃねえか。足を引っ張ったらこうなることくらい、想定内だろ」

「賢明ではありません」

「足手まといは切り捨てる。これほど合理的な判断はねえだろ」

 デニスは「なあ?」とクリフォードを見た。

 クリフォードは唇を結んだまま、眉を寄せていた。

「……どうすんだ、リーダーさんよ。こんな場所で何日も足止め食らうのか?」

「いや──」

 クリフォードは歯切れが悪そうに声を漏らした。

「だったら選択肢はないだろ。動けない女と心中すんのか? 俺はごめんだぜ」

 ロドリゲスが「残念だが──」とつぶやくように言った。「歩けねえなら他に選択肢はねえな」

「俺たちの目的を忘れるなよ。ただでさえ、最初っからトラブル続きで、想定外の事態になってんだ。これ以上余計なトラブルはごめんだぜ」

 襲ってきた二人組がデニスを狙っていたのではない、と知っているから強くは反論できなかった。

 クリフォードがジュリアに「まったく歩けないのか?」とく。

 彼女は息も絶え絶えにあえぐだけで、何も答えなかった。いや、答える気力もないのだろう。

 三人が当人を無視して話し合いをはじめた。そこに情などはじんもなく、ただただ合理性を重視した主張があるだけだった。

 やがてクリフォードが向き直った。その眼差しには酷薄な感情が宿っていた。

「ドクター・ミウラ。やはりは捨てていくしかありません。ここは冷静な判断が求められます。同情で生き延びることはできません」

「しかし──」

 三浦は食い下がった。

 クリフォードが無念そうに首を横に振る。

「私はリーダーとして適切な決定を下す義務があるんです。全滅は避けねばなりません」

「何か方法があるはずです」

「ドクター・ミウラ、感情的にならず、冷静で賢明な判断を」

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