第4回ー3

 十五年前、サルネイ大統領はアマゾンを開発し、貧農に土地を分け与えようとした。主要都市が土地なき人々であふれていたからだ。

「そのせいで慌てた牧場主どもが土地を買い漁りはじめやがった。奴らは学のない馬鹿な貧乏人に土地を与えるなんざ、赤蟻に作物の管理を任せるようなもんだ、って思ってるだろうさ」

 貧農に土地を取られる前に取れ──というわけか。

「だから牧場主どもは邪魔者を殺しはじめた。マラバやインペラトリスの町は無法地帯らしいぜ。もリストになってやがる。殺し屋はそれを見て殺虫剤代わりに弾丸を一発。残るのは血まみれの焼け野原さ」

「……どうにも分からん」ジョアキンが首を傾げた。「アンドラーデが農民より早く椅子に座りたいってだけで、こんな奥地の土地を欲しがるってのも、納得できないな」

 普通は道路に接した森を切り開く。実際、トカンチンス川流域からペルー国境付近まで三千八百キロも延びるアマゾン横断道路は、両側百キロの森が焼き払われて農地や牧場に変わっている。

 ゴルドが固まったゴムの質を確かめながら言った。

「俺たちにとっちゃ、木は命の恵みだ。だが、牧場主にとっちゃ、木は金儲けの妨げなんだよ。森に対する考え方が根本的に違うんだ。相容れるわけねえ。〝ジェルソンの法則〟だ」

『あなたはいつどこにいても、相手より得しなければならない』

 一九七〇年代のサッカー選手、ジェルソンが出たCMの台詞せりふだ。昔、町で見た記憶がある。

「結果のためには手段を選ぶな、ってことさ」ゴルドは吐き捨てた。「森を荒らす連中はぶっ倒さなきゃならねえ」

「政府を味方にしたほうがいい」ジョアキンが反論した。「正式に保護してもらうんだ」

「保護林か?」

『採取用保護林』という概念は、一九八〇年代の終わりから広まった。政府が森を買い取って『採取用保護林』に指定すれば、ゴムの木のラテックスやブラジルナッツの実の採取しか許されなくなる。木々の伐採や土地の開拓が一切できなくなるのだ。

「無駄だ」ゴルドがかぶりを振った。「ここはゴムもナッツも収穫量が少ねえんだ。政府が金を出すもんか」

「じゃあ、エンパチで根気強く抵抗すればいい」

「ふんっ、シコの二の舞いはごめんだ」

 シコ・メンデス──。アクレ州で森を守ろうと闘い続けたセリンゲイロであり、環境保護活動家だ。彼は労働組合を作り、森の開発に抵抗した。だが、大牧場主のアルヴェス一族は難敵だった。娘に言い寄っただけの牧夫の耳と鼻をぎ、殺害したほど凶暴でもある。弟が地元の警察署に勤めていたため、保安官は決して彼らの罪を追及しない。

 シコは脅しにも負けず、数百人のセリンゲイロを集め、野営してエンパチを続けた。民兵を組織して闘うべきだ、と武器を振り上げる仲間もいたが、彼らを制した。

『暴力で応じれば、築いてきた信頼も政治的支援も失うし、憲兵隊を敵に回してしまう』

 やがて拳銃を携えたピストレイロが何人も近くの町を闊歩し、セリンゲイロを挑発するようになった。市議選に立候補した青年は森の民に味方していたため、暗殺された。その年はすでに労働組合の委員長が何人も殺されていた。

 シコは度重なる脅迫や暗殺未遂にも屈せず、抵抗を続けた。アメリカまで足を運び、環境保護を訴えた。国連環境計画やガイア基金などの機関から表彰されたこともある。その甲斐もあり、一九八八年にエンパチで伐採作業員を森から追い払い、政府に掛け合って六万エーカーの森を『採取用保護林』に指定させた。

 だが、アルヴェス一族の怒りを買ったシコは──一九八八年十二月二十二日、殺害された。

「けっ」ゴルドは唾を吐いた。「シコのときは、二百人近い警察官や連邦捜査官が動いたそうじゃねえか。俺らみてえな蟻んこなんざ、何匹殺されたって政府は腰を上げねえよ」

 当時は十年間で土地を巡る殺人が千件は起こったが、有罪になった者は十人に満たない。だが、有名なシコ暗殺はニュースになり、世界各国から取材班がアマゾンに押し寄せた。当局もさすがに見て見ぬふりはできず、アルヴェス一族のダリは逮捕され、法廷に引きずり出された。首謀者が捕まった数少ない例だ。

「そうともかぎらないさ」ジョアキンが言った。「シコの暗殺を機に情勢が変わってきた。殺される犠牲者が半減したそうだ」

 議論の最中、数人の子供が駆けてきた。

「おじちゃん! また話してよ」

 ゴルドは毎日話しても武勇伝のネタが尽きないから、娯楽の少ない集落の子供たちには人気がある。

「よしきた」ゴルドは表情を和らげると、固めたゴムの塊を椅子代わりにして座り、股を開いて子供たちを見回した。「とっておきの冒険を聞かせてやろうじゃねえか。俺が十五歳のころだ──」

 子供たちの様子を見ていると、戦後の日本で紙芝居屋に群がった少年時代を思い出し、妙に懐かしくなる。

 日本は今や、はるか遠くの国だ。

 高橋はしばらく座ったまま闇を見つめていた。

「ユウジロウ」ジョアキンが言った。「また後で代筆、頼むよ」

 ジョアキンは町の女と文通を続けている。前回は彼女から手紙で妊娠を告げられた。

「エンパチで悪党に立ち向かってる武勇伝、話そうかな。勇ましいって思ってくれるかな、彼女」

「きっと、な」高橋は腰を上げた。「じゃあ、後で声かけてくれ」

 ジョアキンに言い残して自分の小屋に戻った。入り口の前で母が待っていた。

「遅かったねえ」

「いろいろあって」

「そうかい。ほら、早くお入り」

 月光の下で背を向けた母が妙に小さく見えた。ずいぶん昔から白髪が目立っている。

 母は渡伯を後悔していないのだろうか。

 日本にいたころの母は、どんなに貧しくても子供の前ではよく笑った。ブラジルに来て顔にしわを増やしていくにつれ、笑みを浮かべる回数が減った。ゴルドの生い立ちを聞いたからか、昔、母から何度も聞かされた話を思い出す。

 若いころの母は外側に巻いた黒髪が自慢だった。だが、太平洋戦争が勃発すると、敵国の髪型であるパーマネント・ウェーブが非難の標的となった。大人に命じられた子供たちが美容院の前に並び、「パーマネントはやめよう」と声高に叫ぶのだ。

 やがて政府は美容院の電気の使用を禁じた。

 昔を振り返った母がよく言っていた。

「ドライヤーも使えないから、髪は濡れたままべとっとしていたよ。美容院じゃ、『濡れセット』なんて呼ばれてねえ……」

 美容院は鉄板を利用する窮策に出た。女性客の持ち寄った木炭を燃料にし、七輪で鉄板を温めて電気ゴテの代わりにするのだ。

「『代用パーマ』をかけたくて貴重な木炭を持ち出してねえ。でも、美容師さんが七輪を団扇うちわでせっせとあおぐのを見ているとね、何だか悲しくなっちゃった」

 結局、戦時中の母は『淑髪』と呼ばれた引っ詰め髪にした。

 渡伯してからは、パーマをかけるどころか、増えてきた白髪を染めることもできない。

「母さん」

「何だい」

「母さんは──こっちに来て後悔してないか?」

「……お前は後悔しているのかい」

 答えられず、口をつぐんだ。

 高橋は年を積み重ねた自分に──家族に思いを馳せた。

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