第7回ー8


17


 植物学者が集落のほうへ駆けていくのを見送ると、高橋は紅蓮の炎に向き直った。

 勇太の友達の声に似ていた。

 樹液の回収を手伝っていて巻き込まれたのか?

 助けなければと思うも、いざ炎を前にしたら二の足を踏んだ。

 飛び込んだら焼け死ぬかもしれない。第一、本当に子供か分からないではないか。悲鳴は獣の鳴き声だったかもしれないし、影は燃える低木かもしれない。幻を追って炎に飛び込み、無駄死にしたら──。

 勇気は炎に食い荒らされていた。炎の高波に背を向けたい衝動と闘った。

 高橋は拳を握り締めた。

 ここで逃げたら自分が自分を一生責め続けるだろうし、許せないだろう。

 燃え残った勇気のかけらを拾い集め、密林を焼き尽くさんばかりに燃え立つ紅蓮の津波を睨みつけた。炎まみれの木が弾け、裂ける。焼けつく空気を吸い込み、喉がひりひりした。

 炎が森を舐め回している。火の粉と灰が舞っている。燃える蔓の群れが炎の鞭と化してうなりを上げ、次々に大地を打ち据える。地獄だ。

 紅蓮と熱気に囲まれ、汗が絞り出されていた。肋骨の内側を叩く心臓は破裂寸前だ。

 裂いたシャツの切れ端で鼻と口を覆い、炎に飛び込んだ。皮膚が熱い。黒煙が目に染みる。眼球をいぶられ、涙があふれる。

 子供はどこだ──。

 林立する巨木群は炎を纏っていた。発砲音のように樹皮がぜる音が辺りに響いている。炎の真っただ中では鳥や獣や虫の鳴き声も搔き消されている。

 突然、落雷さながらの爆音が炸裂し、炎に飲まれた三十メートルの樹木が傾いだ。断末魔の悲鳴を上げ、根元から倒れてくる。その動きがスローモーションに見えた。

 一瞬、死を覚悟した。

 だが、生存本能に突き動かされ、体が反応した。

 高橋は前に駆けた。真後ろで地響きが起きた。熱風が背中を叩きつけた。肩ごしに振り返り、黒焦げの倒木の死に様を見た。数分後の自分の姿と重なった。

 子供はどこだ。本当にいるのか。

 目を凝らして見回したとき、燃え盛る大樹の前に、倒れた子供の姿を見つけた。

「大丈夫か!」

 高橋は子供の体を抱え上げると、本能的に炎の壁の裂け目を見つけ出し、突っ切った。怪物フエノメノのように何十メートルも燃え上がり、うごめく炎の壁。壁、壁、壁、壁──。

 ──逃げ切れないのか。

 黒焦げの倒木と同じく気持ちは折れそうだったが、とにかく生き延びるため、闇雲に走り回った。

 目が痛い。熱気で網膜が焦げる。

 焼けただれた蛇やげつ類の死骸を踏みしだき、生き物めいてのたうつ炎のあいだを駆け抜けた。その先の火勢は弱い。

 ──覚悟を決めて突っ切れば脱出できるかもしれない。

 希望の道筋を見つけ、燃え広がる樹林から駆け出た。そのまま全速力で走った。

 息も絶え絶えだった。

 集落に着くと、セリンゲイロたちが燃える森を見上げていた。仲間の姿を見たとたん、安堵のせいか踏み出す一歩が急に重くなり、五歩目で膝から力が抜けた。

 高橋は子供を抱えたまま倒れ込んだ。

 数人が気づき、駆け寄ってきた。植物学者の三浦もすぐさま「無事だったんですね!」と駆けつけた。

「おーい!」セリンゲイロの一人が奥に向かって叫んだ。「息子は無事だぞ!」

 子供の両親が駆けてきた。褐色の肌は煤で黒く汚れている。二人は息子に取りすがり、人目もはばからず号泣した。

 しばらくして父親が振り返った。

ありがとうオブリガード、ユウジロウ……」震えた声は涙に濡れている。「お前は勇敢な男だ、本当に」

 むず痒い言葉だった。

 高橋は精一杯の笑みを返すと、何とか自力で立ち上がった。顔の煤を拭おうとして前腕の火傷に気づいた。毛穴から染み込んだ熱湯が血管を焼いているかのようだった。

 幸い、火傷の範囲は小さい。

 痛みをこらえながらジョアキンに近づいた。親友が絶望の滲んだ声でつぶやいた。

「このままじゃ、森が全部死んでしまう……」

「川の水で消そう!」太っちょのゴルドが答えた。

「無駄だ。一万人が水瓶抱えて集まっても消せるものか」

「じゃあどうする。森が焼け死ぬのを黙って見てろってのか!」

 ジョアキンの顔は無力感に打ちひしがれていた。

 そのときだった。空を覆い隠す黒煙の幕の中から、水滴が一粒、二粒、落ちてきた。誰もが天を仰いだ。

 まさか──。

 数滴の雨粒をきっかけにし、突然、滝のような雨が黒煙を破った。熱帯雨林特有のスコールだった。短時間だけ土砂降りになり、訪れと同じく唐突にやむのだ。

 滝壺に立っているようだった。うねる炎が大雨に打たれ、火勢が弱まっていく。

 びしょ濡れのセリンゲイロたちが歓声を上げた。

「気まぐれな神の小便だな」ゴルドが笑った。「最高だ」

「おいっ」ジョアキンが胸の前で十字を切った。「罰当たりめ。痛めつけられる森の悲鳴に神が涙した──とかにしろ」

 高橋はただこう思った。

 恵みの雨だ。


18


 勇太は女の子と川を渡っていた。

 スコールに襲われたのは、半ばまでたどり着いたときだった。雨粒の乱打で川面が弾け、荒れに荒れた。あっと言う間に胸の高さまで増水した。

「やばい……早く渡らなきゃ!」

 土砂降りの雨の幕で半歩先も見通せない。対岸の方向を見失わずにすんでいるのは、川の流れのおかげだ。

 勇太は水中で握り締めた彼女の手を離さないようにし、水を蹴り抜くように一歩を踏み出した。小さな体が押し流され、肩まで沈んだ。対岸に向かって足を出すたび、下流に流された。土砂降りの雨でしぶきが上がる。

 天罰のようなスコールが激しくなり、水かさがさらに増した。濁流が渦巻き、暴れ回っている。突然、逆巻く波が嚙みつくように襲ってきた。水中で握っていた女の子の手がもぎ離された。

「あっ──」

 打ち寄せる濁流に飲まれ、頭が沈んだ。口に水が入った。もう両足は川底につかない。もがき、必死で水面に顔を出す。枯れ草と一緒に水を吐く。再び大波が押し寄せた。

 勇太は叫び声を上げながら流されていった。

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