第1回ー2
1
両側に緑が巨大な壁のように生い茂る中、広大なアマゾン川が流れていた。大自然の悠久の歳月の流れのように、ゆっくりと小型のクルーズ船が進んでいる。ディーゼルエンジンがポンッポンッと破裂するような音を立てている。船内にはフックがいくつも付けられており、乗客たちは町で買ったハンモックを吊って寝ている。
アマゾン川の河口は広い場所で幅が三百キロもあり、対岸は地平線と溶け合っている。そこから太陽が顔を出し、空と川面が黄金色に輝くのだ。
二つの川が合流する地点にやって来た。鉛白色のソリモインス川は〝
混じり合わない黒と白。
一部の白人が金と土地を持ち、大勢の黒人や
アマゾンの奥地に存在する州都マナウスが見えてくると、木の葉のようなカヌーが群れをなして近づいてきた。漕いでいるのは子供だ。
クルーズ船のブラジル人たちがビニール袋に食料や衣類を詰めて縛り、投げ落とした。カヌーの少年少女は、川に浮かぶ袋を引き寄せて拾い上げている。古い慣習だと聞いたことがある。乗客が貧しい者たちに施しをするのだ。
マナウスの川沿いには、高床式の民家が並んでいた。
港に着くと、三浦はクルーズ船から降り立った。額の汗をハンカチで拭い、見回した。
桟橋の向こう側から黒髪で
白人が英語で訊いた。学者風の銀縁眼鏡をかけており、顔立ちは端整だった。黒髪は後ろに撫でつけてある。三十代後半だろうか。若く見える。
「ドクター・ミウラですね?」
「はい、そうです」
三浦は英語で答えた。相手が長身なので、目を合わせるにはほんの少し視線を上げなければならなかった。
「ミスター・スミスですね」
「クリフォードで結構ですよ」
クリフォード・スミスは手を差し伸べてきた。
「お待ちしていました、ドクター」
三浦は彼と握手をした。クリフォードの握手は力強かった。
「高名なドクター・ミウラにご協力いただけて助かります。遠路はるばるありがとうございます」
「こちらこそ。貴重な機会になりそうです」
「ドクターは、アマゾンは初めてですか?」
「お恥ずかしながら、入り口に触れたことがある程度です」
アマゾンは植物の宝庫だ。植物学者としては以前から興味を引かれていた。だが、なかなか現地へ赴く機会がなかった。普段はアメリカの大学で植物学を教えている。
クリフォードは後ろを振り返った。
「紹介します。彼はロドリゲス・シウバ。今回のボディガードです。
ロドリゲスは髭の中に半ば埋もれた口を動かした。ドスが利いたポルトガル語で言う。
「死にたくなきゃ、勝手なまねはするな」
「……分かりました」三浦はポルトガル語で答えた。「私は三浦です。よろしくお願いします」
「へえ、言葉通じんのか」
クリフォードが「英語とポルトガル語を話せる植物学者だからこそ、ドクター・ミウラに協力をお願いしたんです」と口を挟んだ。
「言葉が分かるなら、俺に従え」ロドリゲスが言った。「アマゾンは危険だらけだ。ちょっとの油断が命取りになる」
「心得ておきます」
「頼りにしてますよ、ドクター」クリフォードが背を向けた。「桟橋で話すのもなんですし、いったんホテルへ向かいましょう。案内しますよ」
三浦はクリフォードの後をついていった。後ろからはロドリゲスの靴音が追ってくる。
道路では、荷台にガスボンベを山積みにした小型トラックが走っていた。住民が群がり、金を払って自分たちの空のボンベと交換してもらっている。
三浦はそんな光景を横目で見ながら歩いた。気温は四十度近い。燃え盛る太陽の熱が肌に貼りついている気がする。
「この辺りは貧しい者たちであふれ返っていますが──」クリフォードが言った。「景色はすぐ一変しますよ」
彼の言うとおりだった。しばらく歩いていくと、ヨーロッパ風の街並みが現れた。
三浦はセバスチャン広場を通り、アマゾナス劇場を見上げた。十九世紀後半、ゴム景気に沸いた際に建てられた建物だ。外観はパリのオペラ座を模してあるらしく、内部はイタリアの大理石やオーストリア製の椅子などで飾り立てられていると聞く。
マナウスは〝ゴム〟で繁栄した街だ。
一八三九年、『生ゴムに硫黄を混ぜて過熱すると弾力性が高まる』とアメリカ人の発明家、グッドイヤーが発見した。耐久性や絶縁性に優れたゴムの存在は、貴重な物資として認識された。そのため、世界的な供給量不足に陥るほど需要が高まり、『黒い黄金』と呼ばれて価値が高騰した。当時、ゴムは南米のアマゾン川流域でしか採取されなかったので、非常に重宝されたのだ。
ヨーロッパからの移住者たちは、現地の人間が採取したゴムを売買して大金持ちになった。そして、貿易の中心だったマナウスを発展させた。先進国並みの生活水準を目指して。
あっと言う間にイギリスの定期船が行き来し、路面電車が走るようになった。
だが、マナウスの栄光は長く続かなかった。イギリス人探検家、ヘンリー・ウィッカムが原因だ。
一八七六年、ウィッカムはゴムの木の種子を先住民のインディオたちに集めさせ、七万粒を国外に持ち出した。ブラジルの法律で禁じられていた行為だ。
ゴムの木の種子は一カ月も経てば芽を出さなくなるため、密輸出された七万粒は迅速に運ばれ、ロンドンのキュー植物園に蒔かれた。三千粒近くが発芽したという。そこで苗木にしてからセイロンへと運び、さらに植民地である東南アジアの国々に造ったゴム園に移植された。一九〇五年には栽培ゴムが市場に出回り、ブラジルのゴム独占は崩れた。価値が三分の一に下落し、一九三〇年以降、天然ゴムはほとんど姿を消した。いわゆる〝ゴム成り金〟たちは没落し、マナウスは急速に衰えていった──。
栄枯盛衰の町、か。
「我々はマナウスを拠点として、三時間後に船で出発します」クリフォードが語った。「アマゾンに入っている期間は一週間なのか二週間なのか、それは分かりません」
「長旅になりそうですね」
クリフォードは爽やかな笑みを浮かべた。
「覚悟しておいてください」
「むしろ、胸が躍ります」
「心強い」クリフォードは唇を緩めた。「ドクター・ミウラに同行をお願いして正解でした。弊社としては、必ず〝
クリフォードはアメリカの大手製薬会社『ミズリート社』に勤めている社員だった。特定のがんに対して効果があるという〝奇跡の百合〟を探している。ミラクルリリーというのはもちろん学名ではなく、社内でつけられた呼び名だ。
「植物学者としては興味深いですが、しかし、本当にそんな新種の百合が──?」
「ええ」クリフォードは力強くうなずいた。「世界に存在する薬の四分の一は、アマゾンの動植物から抽出された成分が元です。それでもまだアマゾンの一パーセントの植物も研究されていません。それはドクター・ミウラの専門でしょう?」
六千五百万年も生きてきたアマゾンには、一千万種以上の動植物が生息している。蘭だけでも一万種が存在している。現地調査を行った学者によると、一日歩き回るだけで数十種の蝶が見つかることもあるという。
知人のアメリカ人植物学者は、未開のジャングルを白日の下にさらしてみせる、と息巻いていたが、見知らぬ植物に圧倒され、結局、自信喪失して帰国した。
歩き回って三十種のヤシを記録しても、百キロ進めば生態系ががらりと変わり、別のヤシが三十種見つかる大自然だ。しかも──葉を見なければ樹種の特定が困難なのに、枝があるのは数十メートル上方ときた。研究は極めて難しい。
そんな話を聞かされるたび、いつかはアマゾンの大密林の植物を研究したい、と夢見ていた。
「もちろん、アマゾンは未知の植物にあふれていますから、どんな可能性でもあると思います」
「そういうことです。アマゾンの全ては明らかになっていません。そこには奇跡があります」
「〝奇跡の百合〟の情報は一体どのように?」
クリフォードは笑みを崩さないまま答えた。
「申しわけありませんが、社外秘です」
莫大な利益が絡んでいる新薬開発の情報の扱いは、きわめてデリケートだろう。製薬会社としては、情報の漏洩を一番注意しなくてはいけない、ということは理解できる。
「……了解しました」
追及はせず、引き下がった。
「今度こそ──」クリフォードは拳を固めた。「〝奇跡の百合〟を発見しなければいけないんです。アマゾンではいつどの動植物が絶滅するか、誰にも分からないんです」
一説によると、アマゾンでは毎日百種の生物が絶滅しているという。植物も例外ではなく、動植物が密接に支え合っているから、三パーセントの木々を伐採すれば、周辺の樹林五十四パーセントが消滅するとも言われている。
「なるほど、〝奇跡の百合〟は絶滅危惧種かもしれない──ということですね」
「ええ。のんびりしていたら、一週間後には絶滅しているかもしれません。あるいは明日にでも──」
アマゾンの動植物の運命は誰にも分からない。森林破壊、開発、狩猟──。保護されていなければ、様々な原因で常に種の危機に瀕している。
「〝奇跡の百合〟は世紀の大発見になります。必ず採取して会社に持ち帰らなければなりません。それは社にとんでもない利益をもたらすからではなく、人類のためなのです」
たしかに〝奇跡の百合〟が実在すれば、世界の常識をひっくり返す発見になるだろう。
「さて──」クリフォードは立ち止まると、プール付きのホテルを見上げた。「私はあそこのホテルに宿泊しています。ドクター・ミウラもロビーでくつろがれますか?」
「……いえ。せっかくですから僕はマナウスを散策しようと思います」
「そうですか」
「何時にホテルで落ち合えばいいですか」
「二時間後に船着き場にある酒場でどうでしょう? 景気づけに一杯やってから、出発しましょう。そのころにはもう一人のメンバーも揃っているでしょう」
「分かりました」
三浦は店の名前を聞いた。
「危険区域には近づかないでくださいね、ドクター。何かがあったら事ですから」
「気をつけます」
三浦はクリフォードに別れを告げ、その場を離れた。一人で街を歩いていく。
着いたのはアドウフォ・リスボア市場だ。
市場の建物はアール・ヌーヴォー様式で、ステンドグラスが鮮やかだった。
正面玄関を抜けると、木製の台を出した店が並んでいた。鳥の羽根をあしらった木彫りの仮面や、ピラニアの歯を使った魔よけ、ピンクイルカの性器の瓶詰め、熱帯雨林の植物から抽出した石鹼、薬草類があふれている。
さすが商品も個性的だ。
進むと、生臭いにおいと甘ったるいにおいが入り混じって漂ってきた。肉や魚や果物が山積みになっていた。ナマズ、ヤシの実に似たクプアスー、マンゴー、小ぶりのアマゾンリンゴ、バナナ、ウリのような形のスイカ──。一億年前から姿を変えないピラルクー──四メートルを超える世界最大の有〓淡水魚──も干されてロール状になっていた。積まれた十数本の丸太に見える。
三浦は八百屋の店主に話しかけた。
「すみません。マテウスさんを捜しているんですが……」
「物知りのマテウス爺さんかい?」
「ご存じですか? この市場で魚を売っていると聞いたんですが……」
「何日か見かけてねえなあ。マテウス爺さんに用があるなら、直接家を訪ねるといい」
「住所はお分かりになりますか」
店主はしたり顔でキャベツを取り上げた。
「安くしとくよ」
意図を察し、三浦は野菜を指差した。
「……ニンジンを三本いただきます」
購入したとたん、子どもが目ざとく駆けてきた。一枚のビニール袋を突き出す。
「二レアルだよ」
一瞬、何の話か分からなかった。だが、訴えるような眼差しで見つめられて理解した。
ストリートの子供は生きるために稼がねばならない。ビニール袋を何枚も持っておいて、袋を持たない買い物客が何かを買うたび、こうして売っているのだ。
子供のために約百円なら安いと思い、三浦は金を払った。交換で受け取ったビニール袋にニンジンを入れ、ズボンのベルトに縛りつける。
三浦は店主に向き直った。
「それで、マテウスさんの家なんですが……」
「ああ、教えてやるとも」
店主はマテウスの住所を口にした。分からずに困ると、紙に地図まで書いて説明してくれた。
「ありがとうございます」
「先週の酒代、返せって伝えてくれや」
店主はジョークのような口ぶりで言った。
礼を言ってアドウフォ・リスボア市場を出ると、食堂の前でゴミバケツを漁るストリート・チルドレンが目についた。野良犬と残飯を争っている。屋台の客に群がる子供もいた。食べ残した豆の煮物やマンジョーカ芋をねだっている。汚れたシャツはへそが出るほど裾が短く、ズボンは
歩いていくと、明らかに街の気配が変わった。トタン屋根の掘立小屋のような家屋が並び、半ば崩れたレンガの壁には落書きがあふれている。
スラム街だ。不穏な気配が立ち込めている。
書いてもらった地図を確認しながら、目的の住所を探した。〝異物〟への視線が常にへばりついてくる。
地面には血が染みついていた。暴力沙汰があったのだろう。
三浦は緊張を感じたまま歩いた。外務省も注意喚起している地域だ。強盗被害も頻発しているという。
真っ当な服を着ている日本人は目立つ。大金を持っているように見えるだろう。もし襲われたら、財布を差し出して命を守るしかない。ほとんどの金とパスポートはズボンの内側の隠しポケットにしまってある。
角を曲がると、赤銅色の肌の二人組が値踏みするような眼差しを送ってきた。一人のズボンのベルトにはリボルバー拳銃が突っ込まれていた。それに気づいたとたん、緊迫感が
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