第1回ー3

 温室育ちの子ウサギと思われてはいけない。

 二人組が目配せし、一歩を踏み出した。

 早足で立ち去るのが賢明だと分かっている。だが、弱みを見せたら容赦なく襲いかかられるだろう。

 三浦は二人組を一べつしてから、また前を向き、襲撃の気配を察しながらも動じない男を演じた。

 どの道、相手が襲う気なら、拳銃を持っている以上、勝ち目はなく、殺されるのだ。

 二人組はそれ以上、動かなかった。

 だが、油断はできない。不意打ちできるタイミングを見計らっているだけなのかもしれない。

 三浦は警戒心を抱いたまま歩いた。さらに角を曲がって二人組の姿が背後に消えても、決して気は緩めなかった。

 目的地に着いた。廃屋のようなボロ小屋だ。一蹴りで破れそうなほどボロボロの木製ドアがある。

 三浦は手帳を取り出し、走り書きしてある文章を読み返した。そして深呼吸し、ドアをノックした。

 反応は──なかった。

 少し待ってからもう一度ノックした。

 同じく、反応はなし。

 ──留守だろうか?

 三浦はドアに向かって呼びかけてみた。大声を出してみるも、静まり返っている。

 アマゾンの熱風が吹きつけたとき、ちようつがいきしみ、ドアが小さく揺れた。

 どうやら鍵がかかっていないようだった。不用心なのか、盗まれて困るものがないだけなのか。貧困地域では珍しくない。

「あのう……」三浦は静かにドアを引き開けた。「すみません! マテウスさん?」

 ドアを開けたとたん、室内から生ゴミの腐ったような悪臭がぷんと漂ってきた。

 三浦は思わず手のひらで鼻を覆った。

「マテウスさん?」

 三浦はくぐもった声で呼びかけた。

 漠然とした予感を覚え、足を踏み入れた。悪臭が強まった。靴の下で板張りの床がミシッと軋んだ。床板のところどころには虫食いのような穴が開いている。

 蠅が耳障りな羽音を立てながらまとわりついてきた。左手のひらで蠅の群れを払いながら奥のほうへ進んでいった。木製の古びた椅子は引っくり返り、雑誌が散らばっている。

 まるで強盗でもあったかのような──。

 三浦は歩きながら室内を見回した。

 倒れた円形の木製テーブルの陰──。壁に背中を預けて両脚を放り出した体勢の老人の死体があった。


 三浦は息を吞んだ。

 上げそうになった叫び声は喉の奥に詰まっていた。早鐘を打ちはじめた心臓の鼓動が体内で大きな雑音となっている。額に脂汗がにじみ出た。

 見開いた目を老人の死体から引き剝がせなかった。腐乱しており、蠅がたかっている。

 素人目にも死後数日は経っているのが分かった。マテウスは殺されて何日も放置されていたのだ。

 衝撃が収まると、三浦は後ずさった。かかとが何かに当たり、体勢を崩した。

 踏ん張ってから確認すると、倒れた椅子の脚だった。

 息を整え、再び老人の遺体に目を向けた。垢にまみれたタンクトップの胸の部分に赤錆色の血痕が広がっている。

 銃殺か、刺殺か──。

 明らかに殺害されている。老人はおそらくマテウスだろう。強盗に襲われたのか?

 だが、見るからに廃屋じみたボロ小屋に住んでいる老人を殺して何を盗む──?

 

 背筋に戦慄が走った。

 三浦はかぶりを振った。

 いや、考えすぎだ。〝マナウスの物知りじいさん〟のあだ名があるとはいえ──。

 出入り口のドアのほうから誰かがマテウスの名を呼ぶ声が聞こえ、三浦は我に返った。

 死体と出入り口を交互に見やる。

 緊張が走った。

 この状況だと自分が疑われる可能性に気づき、三浦は慌てて裏口から飛び出した。

 ポリバケツを倒し、つんのめりながら家屋のあいだを抜ける。果物の腐った皮を踏んだ。

 路地から駆け出たとき、ボロボロのサッカーボールを蹴っている上半身裸の少年たちの胡散臭そうな眼差しがへばりついてきた。後ろめたさで視線を逸らし、足早に立ち去った。

 桟橋のほうへ向かうと、落ち合うはずの酒場を見つけた。岸辺に接した木造小屋がネグロ川に浮かんでいる。巨大なイカダの上に板壁にヤシの葉葺きの屋根を組んだ水上バーだ。小船を借りて横づけし、上らなければいけない。

 見回すと、奥のテーブル席にクリフォードとロドリゲスが座っていた。

 三浦は緊張の息を抜き、二人に歩み寄った。

 天井では板切れのような羽根が回っていた。

 食べ物より草木の香りのほうが強い。ガラスのない窓から木々の枝葉が差し込んでいるからだろう。

「お待たせしました」

 軽くお辞儀をすると、クリフォードが怪訝そうな眼差しを向けてきた。

「顔色が悪いようですが、大丈夫ですか、ドクター?」

 三浦は自分の顔の強張りを意識しながら、ハンカチで額の汗を拭った。

 死体を発見した話はできない。話をすれば、なぜその老人を訪ねたのか答えなくてはいけなくなる。

 三浦は、ふう、と息を吐いた。

「何でもありません。ちょっと歩いてきたので、少し息切れしてしまって……」

 三浦は空いている木製の椅子に腰を落ち着けた。

「何を飲みます?」クリフォードが訊いた。

「とりあえず──」三浦は息苦しさを覚えるような喉の渇きを意識しながら答えた。「水を」

「水、ですか。分かりました」

 クリフォードが店員を呼ぼうとしたとき、ロドリゲスが「アンタルチカをおかわりだ!」と声を上げた。

 白いホットパンツ姿の若いブラジル人女性が瓶を運んできた。『南極アンタルチカ』の名前どおり、白い腹を突き合わせた二匹のペンギンのラベルが特徴的なビールだ。

「それと──」クリフォードが人差し指を立てた。「ミネラルウォーターを一杯」

「オーケー」

 女性店員が踵を返すと、ロドリゲスは椅子の背もたれに体を預けるようにして、彼女の後ろ姿を目で追った。彼の視線の先にはホットパンツに包まれた豊かな尻があった。

 ロドリゲスは舌なめずりをしながらアンタルチカに口をつけ、「一度あんな美女にお相手願いたいもんだ」と独りごちた。

 しばらくすると、女性店員がミネラルウォーターのペットボトルをテーブルに置いた。

「ごゆっくり」

 三浦は「オブリガード」とポルトガル語で礼を言い、ミネラルウォーターを飲んだ。ひんやりした液体が喉を流れ落ちていく。そこでようやく人心地ついた。

〝マナウスの物知りじいさん〟の異名を持つマテウスが殺された。銃殺か刺殺か──。いずれにせよ、貧しい老人を殺害しても金目の物は何も手に入らないだろう。

 一体なぜ──。

 殺人が珍しくないブラジルとはいえ、タイミングがタイミングだから不信感を抱いてしまう。

 三浦はミネラルウォーターをまた飲んだ。

 そのときだった。クリフォードが「おっ」と顔を上げた。彼の目はアマゾン川に向けられている。

 三浦は彼の視線の先を追った。カヌーがエンジン音を伴って桟橋に近づいてきて、横付けされた。壮年の男が降り立ち、酒場に近づいてきた。中肉中背で、サングラスをかけた金髪の白人だ。グレーの野球帽を被っていた。ポケットが多い薄手の黒いジャケットを着て、ライフルを斜め掛けにして背負っている。背中の武器のせいか、防弾チョッキのようにも見える。

「待たせたな」

 金髪の白人はクリフォードに声をかけた。顎や頰の筋肉がたくましく張っていて、どことなく肉食獣を想起させる。

 クリフォードが苦虫を嚙み潰した顔で金髪の白人に言った。

「遅かったですね。出発の二時間前に集合して旅の計画を話し合う予定でしょう?」

「まずは喉を潤させてくれや」

 金髪の白人は斜め向かいの椅子を引き、尻を落とした。ボストンバッグを足元に置く。奥に向かって「カシャーサをくれ!」と声を張り上げた。

 クリフォードは嘆息を漏らし、三浦に言った。

「彼はデニス・エバンズ。植物プラントハンターのイギリス人です」

 植物ハンター──。

 珍しい植物を探して世界を飛び回る職業だ。前世紀までヨーロッパで盛んだった。

 クリフォードはデニスに訊いた。

「今まで一体何をしていたんです? アマゾンに入っていたんですか?」

 デニスはニヤッと笑みを浮かべ、床のボストンバッグをテーブルに置いた。宝石でも披露するような手つきでチャックを開け、思わせぶりな間を置いてから中身を取り出した。

「一週間、を探してた」

 ビニールに包まれた青紫色の蘭の花だった。色鮮やかでありながら深みのある花弁──。

「それは──?」

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