第3回ー8

 デニスはライフルの銃口を樹冠に定め、右へ左へ動かしている。ロドリゲスはリボルバーを構え、周辺を警戒していた。

 デニスが沼を振り返った。

「早くカヌーを取ってこい!」

 三浦はうなずくと、踵を返した。そのとき、ジュリアが緊張の滲む声でつぶやくように言った。

「何かが──ふくらはぎを撫でた」

 声が水中まで響いたらそれが何かを触発してしまう、とでも怯えているように、慎重な小声だった。

 彼女の一言で背筋が泡立った。

 何かが──。

 三浦は目を凝らし、沼を見つめた。だが、濁った水面は一寸先も見通せない。

「大きさは──」

 尋ねる声に震えが混じった。

 ジュリアは小さくかぶりを振った。

 三浦は唾を飲み込み、再び沼を見た。全体を見渡すように視線を這わせる。

 単なる魚ではなく、アナコンダだとしたら──。

 心臓は破れそうなほど動悸を打っている。額から滲み出た汗の玉がしたたり落ちた。

 アナコンダが樹冠の枝から巨木を伝うように地面まで這い下り、そのまま沼の中へ──。

 目を凝らすも、アナコンダの影などは泳いでいなかった。だが、水底を這っていたら視認できないだろう。

「早く渡ってしまいましょう」

 三浦はジュリアに言うと、一歩を踏み出した。泥水の抵抗が脚全体に感じられる。大急ぎで進みたかったものの、水の中を搔き回してしまうことに抵抗があった。それに反応してアナコンダが襲ってくるかもしれない。

 一歩一歩進んでいく。

 アナコンダはどこに消えたのか。

 銃声に怯えて森の奥へ消えたならいい。だが、もし沼の中に姿を消していたら──。

 疑心暗鬼に囚われ、胃が締めつけられた。

 ふいに足首に何かが絡まった。一瞬で全身が硬直し、恐怖のあまり身動きできなかった。

 藻のような草だろうか。

 ジュリアは全身を駆使して必死で前へ進んでいる。

 三浦は意を決し、歩きはじめた。沼の底にアナコンダが這い回っていないことを願う。

 だんだん岸辺が見えてきた。緑の塊のような草むらがあり、密生する樹木が競い合うように天高くそびえている。

 ズボンに包まれた太ももが泥水から覗いた。水深が浅くなっている。

 もう少し。もう少しだ。

 ジュリアが先に岸にたどり着いた。ショートパンツは泥水で鼠色に汚れている。彼女は沼を出て振り返った。

「早く」

 急かされ、三浦は歩みを速めた。泥水の粘度のせいで容易ではなかったが──。

 何とか岸に上がった。沼から出たとたん、ズボンをどろどろに汚す泥を実感し、不快感を覚えた。

 一呼吸置き、沼を見た。汚れた水面は静まり返っている。

 アナコンダが潜んでいる様子はなかった。

 杞憂だったのか。

 三浦は安堵の息を吐くと、カヌーに歩み寄った。打ち捨てられた木製の舟は苔に覆われ、ほとんど朽ち果てているように見える。中には、今にも折れそうな木製パドルが二本。

 だが、全く使えないわけではなさそうだ。

「手伝ってください」

 三浦はカヌーの後部に位置をとり、縁に両手を添えた。ジュリアがうなずき、側面でカヌーの縁を摑んだ。

「せーの!」

 三浦は合図し、全力を込めて押した。二人で力を合わせると、カヌーは重い音を引きずりながら少しずつ動きはじめた。船首が沼に触れる。

「あと少し!」

 ジュリアが声を上げた。

 三浦は渾身の力を込めた。カヌーは、ズズズ、と音を立てながら沼に進んだ。泥水が跳ね上がり、濁った波紋を広げる。

 額の汗を拭うと、ふう、と一息ついた。沼に浮かんで着水の余韻を残して軽く揺れているカヌーを見つめる。

「迎えに行ってくる」

 三人を乗せることを思えば、一人で行くべきだろう。

 三浦はリュックサックをジュリアに預けると、「気をつけて」と送り出され、カヌーに乗り込んだ。小舟が大きく揺れ動き、転落しそうになった。縁にしがみつき、身動きをやめて揺れがおさまるのを待つ。

 カヌーは舟としての最低限の機能を残してくれていた。

 三浦は二本のパドルを取り上げ、先端を舟の両側に沈めた。見よう見真似同然で漕ぎはじめる。泥がパドルにへばりついてくるような感覚があり、一漕ぎが重い。

 徐々にカヌーは進みはじめた。

 腕が筋肉痛になりそうになりながら、ひたすら漕ぐ。沼の中を歩くのと大差ない速度でしか進まない。

 デニスが「早くしろ!」とがなり立てる声が届く距離に来た。そのまま漕ぎ続ける。

 向こう岸が近づいてきた。沼にアナコンダの影が映り込むようなこともなかった。

 何事もなく着くと、クリフォードたちが乗り込んできた。

「なかなかやるじゃねえか」ロドリゲスが満足そうな顔で言った。「お勉強しかできねえかと思ってた」

 三人の体重でカヌーがぐっと沈んだ。だが、さすがに沈没することはなかった。

「さあ、行け」デニスが命じた。

「もう腕が……」

 弱音を漏らすと、ロドリゲスが漕ぐのを代わってくれた。太い腕でパドルを漕ぐ。

 ジュリアが待つ岸には十分ほどでたどり着いた。

 全員が沼を越えた。安堵の息が漏れる。

「方向は──」クリフォードは地図を広げ、コンパス片手に方角を確認している。「向こうかな」

 デニスとジュリアは彼の地図を覗き込んでいる。

 三浦は乳酸が溜まった腕を振り、揉みほぐしながら三人の様子を眺めていた。

 そのとき、ロドリゲスが近づいてきた。

「勇敢だったな、センセイ」

「いえ──」

「謙遜すんなよ。単なる興味だけでアマゾンにやって来た人間なら、パニックになって、うるさく騒ぎ立てるだけさ」

「どういう意味でしょう?」

がある奴はタフだって話さ」

「え?」

 ロドリゲスは薄笑みを浮かべ、三浦に耳打ちした。

「センセイ、俺はあんたの本当の目的を知っているぞ」

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