第3回ー6

 一時間ばかり歩いた。

 シャツが汗でべたつき、肌に貼りついている感触が不快だ。額から汗をしたたらせながら、ひたすら足を動かす。

 ミドリシタ蜂が羽音を撒き散らして飛び交っていた。ジュリアが顔の前で手のひらを振り回した。

「刺激するな」デニスがぴしゃりと言った。「刺されるぞ」

 彼女が顔をしかめて手を止める。

「それでいい。巻き添えはごめんだからな」

 植物の障害は多い。羽毛状の葉や掌状の葉が生い茂り、四方八方に緑の布が掛けられているようだった。ところどころ深紅の花が色に変化を与えている。

 影が視界の中を横切り、三浦は視線を上げた。黒い毛並のクロクモザルが樹冠を移動していた。リスザルと違い、長い尾を器用に使って枝にぶら下がったり、物を摑んだりする。

 奥に進むと、茶褐色の蛇さながらにねじれた木が巨木の幹に絡みついていた。その近くに三本のブラジルナッツの木があった。樹冠を突き破るように一際高く五十メートルほども伸びている。

 むんむんする熱帯雨林の中を歩いた。文明を締め出すように巨大な樹林が立ちはだかっている。寄り集まった蔓の群れは、無秩序に張り巡らされた無数の黒い縄のようだった。

 歩いていると、突然、視界が開けた。密生する樹木群が途切れ、代わりに黄土色の沼が広がっていた。立ち往生し、全員で顔を見合わせる。

 ロドリゲスがうんざりした顔でため息を漏らした。

「……行き止まりだ」

「ですね」クリフォードが沼を見渡した。「底なし沼ということはないでしょうけど、深さが分かりません。ここを進むのはリスクが高いでしょうね」

「ここまで来て引き返すのか?」デニスが首を捻りながら振り返り、右奥を睨む。「……回り道も難しそうだな」

 今まで通ってきたのは、ロドリゲスがマチェーテで植物の障害を切り落とせば辛うじて進めるルートだった。だが、沼の両側は幾重にも折り重なった緑の掛布のように蔓植物と樹木が密生しており、重機でも使わねば進めそうにない。

 デニスが様子を見るように歩を進めたとき、靴の下からパリッと硬質な音がした。

「ん?」

 クリフォードが「どうしました?」と訊く。

 デニスが一歩後退し、靴底を持ち上げた。薄黄色の卵の殻が割れていた。鶏の卵に比べたら大きめだ。

「おそらく──ホウカンチョウの卵だな」デニスは上方を見上げ、目を細めた。「樹冠の巣にあるはずの卵が地面で割れていた。割ったがいるはずだ」

 犯人──?

 三浦はデニスの視線の先を追った。

 デニスが「ほら、いやがった」と頭上を指差した。「なかなかの大物だぜ」

 目を凝らすと、樹冠の葉の隙間から黒光りする〓が覗いていた。丸太のような胴体だ。

 背筋が泡立った。

「アナコンダ……」

「ああ」デニスがうなずいた。「あの胴体の感じだと、七メートル級だな」

 ジュリアが「大丈夫なの?」と尋ねた。

「おそらく、とぐろを巻いて寝てる。刺激しなけりゃ、襲ってくることはねえさ」

 アマゾンジャガーにアナコンダ──。未知の大密林には危険しかない。

 デニスが杖のような木の枝を拾い、沼の前に戻った。枝を沼に突き立てて深さを測る。

「歩いて渡れるかもしれねえな」

「それはどうでしょうか」クリフォードが反論した。「沼の先の深さは分かりません。何より、沼にどんな生物が生息しているか分からない中、無用なリスクは避けるべきでしょう」

 黄土色の沼はアマゾン川以上に濁っている。水面から数センチ下も見えない。

 デニスが舌打ち交じりに言った。

「半日歩き続けてきて無駄足はごめんだぜ」

 ロドリゲスが沼に顔を向けたまま目をすがめた。濁り切った底を透視でもしようとするかのように。

「……俺は渡りたくねえ」

 デニスがロドリゲスを横目で見やった。

「無駄骨、折りたいのかよ。集落を見つけて態勢を整えなきゃ、じり貧だぜ。アマゾンで無防備に夜を何夜も迎えるほうがよっぽどリスキーだ」

 たしかに引き返して迂回したら、ゴムセリン採取人ゲイロの集落まで何夜かかるか分からない。しかも、夜の熱帯雨林では何が起こるか──。

「俺は沼なんて入りたくねえ」

「川には入ったろ」デニスがロドリゲスに反論した。「泳いで荷物を回収しに行った。同じことだ」

「川は流れてる。まだ、ましだ。だが、沼は違う。そこにある。どんな生物が潜んでいるか分からねえ」

 二人の口論が激化しそうになったとき、クリフォードが沼の向こう側を指差した。

「あれを──」

 三浦は彼の視線の先を見た。

 緑を茂らせた樹冠が天まで届きそうな巨木の根元に、木製カヌーが打ち捨てられている。全体的に苔むしており、何十メートルも離れていながら腐った木の臭いが感じ取れそうだ。

 ロドリゲスが小馬鹿にしたような忍び笑いを漏らした。

「沼を渡ってからカヌーを手に入れてどうすんだ? またこっちへ戻ってくるのか?」

「いえ」クリフォードはかぶりを振った。「一人が沼を渡って、カヌーを確保して戻ってくれば、残りの者は安全に沼を渡れます。最善手でしょう?」

「冗談じゃねえ。なんざ、俺はごめんだからな」

「誰かは行かなければ」

 ロドリゲスがデニスを見やった。

「出番だぜ。言い出しっぺのお前が行けよ。沼を渡ってカヌーを取ってこい」

 デニスが冷笑を浮かべた。

「そういうことなら事情は違う。俺一人だけハズレくじを引きたくねえな」

「沼を渡る案はお前のもんだろ」

「反対派が何もせず安全だけ享受しようなんて、虫がよすぎると思わねえか?」

「キョウジュ? 難しい言葉、遣うんじゃねえ」

「沼を渡ることに反対しながら、甘い汁、吸うのはずるいだろ、って言ったんだよ。俺が一人で無事に沼を渡ったら、もうそのままお別れアデウスだ」

 クリフォードの牽制するような眼差しが全員を這う。誰もが無言で互いを窺っている。

 沈黙を破ったのはデニスだった。

「お前──行けよ」

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