第7回ー5

 集落へ戻る道の半ばまできたとき、草葉やつるがひしめく密林の奥から叫び声が聞こえた。

 三浦ははっとして高橋と共に周辺を見回した。

 ホエザルの吠え声ではない。人間の──それも何かに襲われたときに発する悲鳴だ。

 最初に想像したのは伐採作業員たちの復讐だった。

「もしかして、先ほどの連中が仲間でも連れて戻ってきて──」

「……どうかな」高橋の目が警戒してキョロキョロと動き回る。「誰かがジャガーオンサかアナコンダに襲われたか……。森の人間はよほどの危機でないかぎり、叫んだりしない」

 高橋は腰からマチェーテを抜き、五十センチの鈍い刃を見つめた。

「武器としては心もとないが……」

「助けに行きましょう」

「ああ」

 高橋は藪の壁を突っ切りはじめた。のたくる蔓の群れをマチェーテで切り落とし、「大丈夫か!」と大声で呼びながら奥へ奥へ向かっていく。

 途中で立ち止まって見回し、再び駆け足で進む。

 高橋が奥の草花を搔き分けたとたん、巨木にもたれかかっている人間を発見した。

 それは──デニスだった。汗まみれの顔を引き歪め、苦しげにうめいている。

 高橋は獣の影を探すように見回してから、デニスに駆け寄った。三浦も駆けつけた。草花の香りを塗り潰す鉄錆の臭いがぷんと鼻をついた。

 デニスは喉を押さえていた。

「一体何が──」

 三浦は愕然としたまま突っ立っていた。

 デニスが手で押さえている喉元から鮮血があふれた。シャツの襟から胸にかけて朱色に染まっている。木の根元の黄色い花々が血に濡れ、群生する彼岸花に見えた。

 冷たい手で心臓を鷲摑みにされたように感じた。密林の空気が急に濃密さを増した。

「一体何に──」

 デニスは血まみれの唇を動かした。最後の力を振り絞って何か伝えようとしていた。古びたパイプの中から汚水があふれてきたような〝音〟で、何も聞き取れなかった。

 その直後、デニスの体が弛緩した。アマゾンで生き物に訪れる死は、森が生きてきた悠久の歳月とは違い、唐突で急速だった。鮮血にまみれた喉の傷口があらわになる。獣の咬み傷ではない。

 刃物で真一文字に切り裂かれていた。


15


 樹冠の隙間から射し込む幾筋もの細い陽光は、深緑のじゆうたんに縫い込まれた金糸のようだった。

 ゆうは、身振り手振りで先住民インデイオの女の子に意思を伝えようと四苦八苦していた。腰布一枚で、浅黒い上半身がき出しだ。黒髪はパサパサで、獣に育てられたようにボサボサだった。

 数週間前に森の中でふと出会ったインディオの女の子──。その後も一人でゴムの採取をしているとき、川辺のほうへ休憩に行くと、ときどき遭遇した。

 木の実を集めているようだった。

 言葉は一切通じず、意思の疎通ははかれないものの、謎多き女の子が気になり、話しかけるようになった。集落には同年代の女の子が少なく、新鮮だった。

「君はどこに住んでいるの?」

 勇太は小屋を形作るようなジェスチャーをしてみたが、女の子は小首を傾げるばかりだった。

 女の子が言語とは思えない〝音〟を発した。そこに文法があるようには思えず、一語も聞き取れない。昔出会ったインディオの言葉は、理解不能だったが、それでも言語だと感じられた。しかし、女の子の言葉は何度聞いてもただの〝音〟だ。聞き取れる仲間が本当にいるのだろうか。

 何とも不思議な感じだった。

「もう戻る?」

 戻る、といっても、彼女は一体どこから来て、どこへ戻っていくのか。部族の集落が近くにあるのだろうか。

 今まで付近にインディオが住んでいるとは聞いたことがないが……。

 彼女について行こうとしたこともあったが、森深くに平然と踏み入ってしまうので、途中で断念した。

 勇太は森の奥を指差した。一応そのジェスチャーの意味は通じるらしく、指し示したら彼女が歩きはじめる。

 先に進んでいくのは女の子だ。

 勇太は彼女の歩調に合わせて歩きはじめた。ゴムの採取で踏み固められた林道と違い、自然の障害だらけだ。樹木に絡みついた蔓の群れや、伸び上がる草花が緑の壁になっている。胸を搔きむしるような獣や鳥の鳴き声が広がっている。

 山刀マチエーテを抜き、父の使い方を思い浮かべながら振り下ろした。五十センチの刃が蔓に弾かれ、取り落としそうになった。女の子に照れ笑いを向ける。

「普段はうまく切れるんだけど……」

 勇太はU字に垂れ下がる蔓を目がけ、思い切りマチェーテを振り下ろした。真っ二つになった蔓が跳ね上がり、勢い余った刃が太ももをかすめた。

「痛っ」

 半ズボンから剝き出しの太ももに赤い線が走り、血が滲んだ。ズキズキする。

 勇太は唇を嚙み締めた。

 恰好悪い姿を見せてしまった。

 勇太はハンカチで傷口を拭った。それから蔓草の壁を切り裂きながら進んだ。マチェーテは自分を傷つけないためにも外側に振るのがコツだと知った。

 ネズミでも飲み込んだのか、腹の膨らんだ大蛇が寝そべっていたから遠回りした。

 かなり歩くと、汗で濡れた前髪を額から引きはがし、一息ついた。乾いた唇を舌先で湿らせる。

「大丈夫?」

 勇太は女の子に訊いた。彼女のほうが平然としている。よほど森の生活に慣れているのだろう。

 水筒を持ってくればよかった、と後悔した。

 ふと、初めて父とゴム採取に出たある日のことを思い出した。

 たしかお父さんは──。

「ちょっと待ってて」

 勇太は渦巻く蔓をかいくぐって奥へ向かった。雑草や低木を搔き分け、見回した。小鳥が木から木へ飛び渡り、幹の裂け目を覗き込んでいる。餌となる昆虫でも探しているのだろう。

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