大平 遼太郎 9
「
彼女を驚かせないようにそっと名前を呼ぶ。
その時、自分に違和感を覚えた。声が高く、視線が低い。子供の体に戻っている。だけどそんな些細なことは次の一歩ですぐに頭の隅に追いやられた。
「遥」
歩み寄りながらもう一度。
すると今度は声に答えるように遥が立ち上がった。あの頃のままの姿で、初めて会った時と同じワンピースを着て、赤いスカートを揺らして。
遥はこちらを振り向き、どこか困った顔で、寂しそうに笑う。
「来ちゃったんだね、
その言葉に、手を伸ばせば届く距離、だけど彼女を怖がらせたりしない距離、そこで静かに立ち止まり、俺は答える。自分にできる精一杯の優しい声で。
「うん、あのままお別れなんて嫌だったから」
「いいのに」
「どうして?」
「あれくらいの方が辛くないよ」
「そうかな」
「そうだよ。だって、本当は私はもういないから。夢ならパッと覚めちゃった方がい
いでしょ。そうすればすぐに忘れられるし」
「でもこれは夢じゃないんでしょ。今ここにいる遥は本物だ」
「ううん、違う。ここにいる私は龍なんだ。人間じゃないんだよ」
「さっきもそう言ってたよね」
「そうだよ、だからね、もう私のことは、忘れて」
「ごめん、忘れられないよ。それに龍だったとしても遥は遥だ」
「私は今日会えたから十分満足したよ。忘れちゃっても怒ったりしないよ、泣いたりしないから」
「そうなの?」
けれど遥は言葉とは違ってずっと泣きそうな顔をしている。
嘘が下手なんだな。
こんな時なのにそんな彼女が愛おしく感じてしまう。
「私は私を思い出して、遼太郎君のこともちゃんと思い出せて、一緒にお祭りにも行けた」
「うん、そうだね」
「遼太郎君もそうでしょ。私との約束はちゃんと守れたんだから」
「うん」
「ずっと気にしててくれたんでしょ?」
「うん」
「嬉しいよ。ありがとう。でも、だからお願い、遼太郎君、これで終わりにして、もう私のことは忘れていいから、引きずったりしないで、囚われたりしないで、私のことを考えて辛くなったりしないで、遼太郎君が心配なの」
「ねえ、遥」
遥の手をそっととると、彼女が僅かに体を震わせたのを感じた。
「俺は、きっと前を向いて、変わっていくよ。遥がいたことも、いなくなってしまったことも、ちゃんと受け止めて。そんなに心配しなくても大丈夫だよ。だけど、どうしても遥を忘れたくない。ううん、忘れない」
「どうして……? それじゃあ辛いままずっと……」
「だって、そんなこと言ってるけど、遥は俺のこと忘れないでいてくれるんでしょ? それじゃあ遥だけ辛いままになっちゃうし、だったら俺だけ忘れるなんてできない。それにね、俺だけじゃないんだよ」
「遼太郎君だけじゃない?」
「そうだよ。町が、遥がこの町で出会った全てが君を忘れない。和菓子屋さんの女の子も、
遥は何も言わず俺の方を見ていたが、握る手の力を少し強くして、それから目を伏せるように俯いてまた俺と目を合わせた。すごく小さく頷いてくれたのかも知れない。
「遥がこの町のことを思い出した時、この町の誰かが君のことを思い出しているよ。遥が俺のことを想ってくれた時、きっと俺も遥のことを想っているよ」
やっぱり小さくだけど、今度はさっきよりも分かりやすく頷いてくれる遥。
零れ落ちた涙が夕風にさらわれ、撫子をさざめかせながら吹き渡る。昇る風を追うように空を見上げるとさっきよりも夜の色が濃くなっていて、そしてそこには綺麗に尾を引いた彗星の姿があった。
「彗星」
遥が呟き、俺が答える。
「一緒に見れたね」
「……うん」
夜が優しく広がり濃紺を混ぜていくと空が青と橙の間に撫子の色を映したようなピンク色を見せる。
「あ、そう言えば、教えたいことがあったんだ」
「なに?」
夕日の残光に縁取られた遥の輪郭が輝いていた。
「俺が撫子を好きな理由」
「え?」
「本当はさ、嫌いだったんだ。町内会での世話とか面倒くさかったし。でも、遥と初めて会った時、ほら橋の上で」
「ドラ饅の?」
「うん。あの時思っちゃったんだ。遥が笑った顔を見て、撫子みたいだって」
「私が?」
「うん。それから撫子を好きになったんだよ。だから、撫子を好きなのは、遥を好きになったから。俺、遥が好きなんだ」
遥はちょっとだけ驚いた顔を見せたあとに優しい声で「そっか」と小さく言った。
「やっと言えたよ」
遥の輪郭の光が風に溶けていくように揺らめく。
「私も」
夕焼けの最後の光が、薄らいで消えていこうとしている遥を照らし、彼女の頬を伝
う涙を光に変えていく。
「私も遼太郎君が大好きだよ」
そう言って、遥は涙も拭わずに、また撫子みたいに笑ってくれた。
それを最後に彼女の姿は見えなくなった。
瞬間、時間を早めたように景色は元の夜へと変わり、同時にご神体の大岩から輝く何かが空へと昇った。
残ったのは光の粒のような僅かな気配と、風の中に微かに響く龍の声。
空を見上げるとまだ彗星が見える。
遥が見た最後の俺は優しく笑えていただろうか? 答えはもう聞けないけれど、きっと大丈夫だと思えた。きっと二人同じような顔で笑っていたはずだから。
俺と
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