雲川 深雪 8

 私を追憶の淵から現在の店へと連れ戻したのは一人のお客さんの来店だった。


「あ、いらっしゃいませ」

「こんにちは」


 少々慌てて挨拶をしてしまったが、その女性が笑顔で答えてくれたので、内心ほっとした。

 女性は一見、観光客のようで、麦わら帽子に清潔なワンピース、そしてキャリーバッグを持っていた。キャリーバッグはそんなに大きなものではなかったが、彼女が小柄だからかそれなりの大きさに見えた。


「あの、良かったらお荷物お預かりしましょうか?」

「ありがとうございます。お願いしてもいいですか」


 帽子と荷物を受け取り、レジの裏に置き、何気なく彼女に尋ねた。


「観光ですか?」

「はい。素敵な町ですよね、籠根町かごねまちって。最近毎週末、来ているんです」


 微笑み話す彼女の柔らかな印象は、初見のお客さんに対する時に感じる緊張感を不思議と忘れさせた。


「そうなんですか。私、地元なんですけど、気に入っていただけたみたいで良かったです」

「地元なんですね、羨ましいです」

「観光地ってこと以外はただの田舎町ですけどね」

「そんなことないですよ、たくさん素敵な所ありますよ」

「ふふ、ありがとうございます」


 地元を褒められると言うのは、なんとなくこしょばゆい。


「実はですね、来月もまた来る予定がありまして」

「来月もですか?」

「ええ、龍神祭りゅうじんさいに行くんです。珠守神社たまもりじんじゃさんの」

「龍神祭」


 少し驚いた。由美ゆみの次に来たお客さんからもその名前を聞くとは思わなかった。


「はい、それでせっかくなのでその時にお着物でも着れたらと思いまして。調べてみたらちょうど近くにこちらのお店があったもので」

「あ、そ、そうなんですね」


 考えてみればそういう時季だ。お祭りに着物を着て行くのは良くあることだし、そんな目的を持った人が着物屋であるこの店に来るのも不自然ではない。たまたま二人連続しただけだ。


 気を取り直して私は彼女に聞いた。


「良かったらお手伝いしましょうか?」

「ありがとうございます。是非お願いしたいです」


 それから、彼女の観光の話を聞きながら、由美の時と同じように店内の棚を見て回った。


 しばらくそうしていたが、ふと彼女が店の外を気にするように顔を上げた。遠くを見ている、と言うよりかは何かを、誰かを見ているような感じで、私はその眼差しが気になり彼女に尋ねた。


「どうかされましたか?」

「あの、表の展示されている着物も売り物でしょうか?」


 キンさんの撫子なでしこの着物のことだ。


「そうですが、ご覧になりますか?」

「はい」


 表に出るとキンさんは撫子の着物を着て変わらず店先に一人で立っていて、他に人は居なかった。と言うことは彼女はきっとそんなキンさんに視線を送っていたのだろう。


「可愛らしい着物ですね」

「ええ、私も気に入ってまして。実はこの着物、私が反物たんものから縫ったものなんです」


 もちろん、高校生の頃に作ったものではない。だけどあの経験は自分の中に強く残り、撫子は私の重要なモチーフになった。


「そうなんですか、凄いです。あ、プロの方にこれは失礼ですね」

「いえ、そんなことないですよ。褒めてもらえて嬉しいです」


 ちなみにだけれど、私にとって撫子はモチーフになっただけではない。

 私は商店会で環境美化の活動をしていて、その活動の一環で、商店街の色々な所に鉢植えを置いているのだが、そこで撫子の世話をしているのだ。だから撫子とは植物としても今も付き合っている。


 思えば高校生のあの頃は私の人生にとって本当に重要な時期だったのだ。


「これは、撫子、ですね」

「はい、花の季節は少し過ぎてしまいましたが、まだまだ暑い日もありますし、下着でも調節できますので着物としては十分着れます。お客様にも良くお似合いだと思いますよ。いかがですか? こちらになさいますか?」


 そう聞くと、彼女は本物の花を慈しむかのように、そっと着物の柄に手を触れた。


「ええ、この着物にしようかと思います」


 その時の彼女の表情に私は強い既視感を覚えた。既視感は体感時間をゆっくりと感じさせ、その中で私は彼女の言葉を聞いた。


「好きなんです。この花」


 それは、あの時花壇の前で見た先輩の顔と重なって、なぜか私はふいに彼女と先輩が同じ撫子の花を見て、お互いを想い合っているかのような錯覚を覚えたのだった。


「あ、でも、せっかく展示されてるのに、お手数おかけして申し訳ないです」

「へ、あ、いえ、いえ、大丈夫ですよ」


 一瞬意識が遠くに行っていた私は、彼女の一言で我に返った。そしてキンさんに視線を移して、もう一度我に返る。


「あ、少しお時間頂戴してもいいですか?」


 この着物は一点もの。それを彼女に売ると言うことは、キンさんから脱がす必要があると言うことだ。しかも脱がしたあとキンさんを裸のまま店先に立たせておく訳にもいかない。


「よいしょおっ」


 私はお召し替えのため再びキンさんを抱えるのだった。

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