宮下 遥 8
昼間の暑さを冷ましながら吹き渡った風がほんの少し立ち寄るように、窓から顔を出す
「気持ちがいいですね」
私たちが居るのは十香さんが予約をしていた旅館の部屋。
図書館ではあのあともできるだけ情報を得ようと十香さんが色々聞いてくれたが、あれ以上手掛かりを入手することはできず、そのあとの帰り道でも私が何かを思い出すことはなかった。まるでそれまでが嘘だったかのように。
「
優しく気遣うようにそう言って十香さんは網戸を閉め
「あ、うん……」
さっきからずっとあの声のことを考えていた。そのせいもあってか十香さんには心配をかけてしまっているようだった。
私が椅子に座ると彼女は言った。
「ゆっくり考えましょう、今日のところは休んで、きっと疲れが出たんですよ」
「違うの! 疲れてる訳じゃないの……、それにできるなら早く思い出したい、ゆっくりしている時間はないの」
「ですが、いえ、そうですね、すみません遥さんの気持ちも考えずに」
語気が強くなってしまっていたことに気が付いた。
「あ……、ううん謝らないで、十香さんはなんにも悪くない。気を遣ってくれて嬉しい。私がちょっと焦っちゃってるだけ。ごめんなさい」
肝心な部分を思い出せない自分、迫ってきていることだけを感じる時間、それにあの声。どれもが焦る気持ちを掻き立てていた。
そんな私の前で十香さんは微笑むと目の前の机の上に置いたノートパソコンを広げた。
「では遥さん、一つずつおさらいしてみましょう、今後の方針を決めるためにも。もしかしたらそれで分かることがあるかも知れませんし」
彼女は少しも怒ったりしていない、それどころかこんな状態の私にも寄り添ってくれようとしていた。
「……うん、ありがとう」
本当に出会えたのが十香さんで良かった。
今の私にとっては彼女が、手を取って導いてくれる希望そのものになっていた。
それから一日の行動を振り返りながら、私は十香さんに思い出したことを伝え、二人で今日得られた手掛かりをまとめた。
時間が経ち机の上もさっきより雑多な状態になっていた。ノートパソコンの他に、メモ、お饅頭、本、写真、それと十香さんが写真をモデルにして書いたポスターに見立てた絵。
「やはり遥さんにはこの町で過ごした記憶があるようですね。それも龍としてではない記憶が」
「うん、だけどやっぱりどうしても思い出せないことがある」
「それを思い出そうとしたら誰かに止められた。でも、だとしたら、その誰かと言うのは遥さんの考えを読める存在と言う訳で、そんな存在が居るのだとしたらそれは……」
「……龍? じゃあ、あの声は龍の声? でも、そうだとしてもどうして龍は私が思い出すことを止めるのかな?」
「その理由も遥さんが思い出せない部分にあるのかも知れません。だから龍はその情報を隠して、さらにそこに辿り着きそうになったから遥さんを止めた。その声を聞いた時、遥さんは誰かを思い出そうとしていたんですよね」
「うん」
「そしてその誰かと言うのはあの事件の男の子であり、遥さんは彼と一緒に遭難した女の子、
「ううん、たぶん、かも知れないじゃなくてそうなんだと思う。私は宮下遥なんだと思う」
けれど図書館でその情報に辿り着いて以来、通信回路を遮断されてしまったみたいに実感を伴った記憶の再現は起こらなくなってしまった。
「遥さんはあの事件が切っ掛けで龍になった、そして龍は遥さんの記憶を隠している。その隠している記憶にはあの事件の男の子が居る、と言うことですかね」
「そうだと思う」
「龍になったとはどう言うことなのでしょう? それに隠していることとはなんなのでしょうか? 思い出してしまうと何か不都合が生じてしまうことなのでしょうか?」
「でも龍にとって不都合なことなんてあるのかな……」
十香さんは机の上のお饅頭を手に取った。ラップに包まれたその表面には眠る龍の焼印が刻まれている。
「んー、そうですよね……。龍の気持ち……、なんて考えても簡単には分かりそうもないですし……、一緒に遭難した男の子の方で考えてみましょうか」
「そうだね」
十香さんはお饅頭を置くと今度はパソコンを操作する。
「男の子の名前は確か、
それが私が思い出せない人の名前。
「遥さんは彼と一緒にあの山へ行った。山に行った理由は、
「うん、そこまでは思い出せた」
「他の場面に出てくる思い出せない人物と言うのもおそらく彼、ですよね」
「そうだと思うけど、そうなのかな……」
「んー、なんと言うか、私は一見これでいいような気もします。遥さんが忘れていたのはこの町で過ごしていたこと、それとあの事件にあったこと。ですが遥さんはまだ何かが欠けている気がしている。実際、龍にも何かを隠している気配がある。うーん……」
十香さんは自分で描いた絵を手にして、ちょっと笑って言った。
「とりあえず次はポスターでも綺麗に描いてみましょうか? 私の下手な絵じゃ参考になっているのか分かりませんし」
彼女の笑顔につられて私の緊張も少し緩んだ。
「うん」
「それから彼のことも探してみましょう、もう一度湯本さんに聞いてみて……」
彼のこと。彼。大平遼太郎。大平君。……遼太郎、君?
その時、突然私の耳に龍の
するとまるでそのタイミングに合わせたように部屋の電灯が消えた。
「停電!?」
十香さんと私がそろって声を上げた。
しかしその停電はほんの一瞬で、電灯はすぐに元のように明かりを灯したのだった。
「良かった、大丈夫でしたか遥さん」
「うん、大丈夫だよ」
だけど言葉とは裏腹に私の心には一抹の不安が生まれていた。
いや、そうではない。
私の中に初めからあった小さな不安に気が付いてしまったのだ。
もしかしたら、思い出さない方が、いいのかな……。
今の龍の声もまた、私が思い出すことを止めたかのように感じたのだ。
「遥さん?」
「あ、ううん、なんでもないよ」
しかし今それを十香さんに伝えることはできない。こんなにも協力してくれているのに。
「今のは龍の声ですか?」
「うん、そうだよ」
「何かあったのでしょうか?」
「分からない、でも最近良くああして声をあげているから、それなんじゃないかな」
「そう、ですか」
「ね、お祭り、お祭りのことも調べてみよう。今年の龍神祭はいつなんだろうね?」
「あ、はい、ちょっと待って下さいね」
そうやって誤魔化して私は話を逸らした。
そのあとも十香さんは色々と調べてくれたが私は心がざわつき上の空になってしまっていた。
しばらくして部屋の戸をノックする音が聞こえた。
「はい」
十香さんが返事をすると、失礼します、と宿の仲居さんが顔を出した。
「お客様、大変申し訳ないお知らせなんですが……」
それは宿の機械が壊れ、お風呂に入れなくなったと言う知らせだった。
「あ……」
私のせいかも……。
直感的にそう思ってしまった。停電と自分の行動を結び付けてしまったのだ。
さっきの停電。あれはきっと龍のせいで、そうなのだとしたらその原因を作ったのはたぶん私だ。私が思い出そうとしたから。私の我儘がこんなところにも迷惑をかけてしまう。やっぱり思い出したら駄目なんじゃ……。
希望の前に不安の霧が立ち込めていた。
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