宮下 遥 9

 今日子きょうこさんの家の最寄り駅が集合場所だった。

 宿のお風呂に入れなくなったと聞いたあと、どうしようかと頭を捻った十香とおかさんは閃いたように今日子さんの名前を口に出した。どうせならば彼女に穴場のお風呂を教えて貰おうと考えたのだ。

 最初は電話で場所を聞くだけのつもりだった。


『じゃ、じゃあ、あの、これから会えませんか?』


 しかし今日子さんからの意外な提案で私たち三人は再会することになった。

 正直に言えば心は穏やかではなかった。記憶を取り戻したい気持ちとそのことに対する不安が協力してくれた彼女たちの存在を前に堂々巡りを繰り返していたのだ。

 だけど駅で今日子さんと再会した時、それらを放り投げて私の気持ちは一気に彼女の方を向いてしまった。


「十香さん……」


 会うなり今日子さんが大粒の涙をこぼしたのだ。



 髪をまとめて上げた十香さんがタオルを前にあて脱衣所から浴室へと向かう。

 無意識に当たり前のようについて行こうとしたら浴室の手前で彼女が振り向いた。


「あの、はるかさんも一緒に入りますか?」

「へ?」


 入り口の横にしゃがんで彼女が小声で続ける。


「あ、全然駄目じゃないんですけど、その、違和感と言うか、お洋服とかちょっと気になってしまって……」

「え? あ……」


 そこで自分がお風呂に入る訳でもないのに、しかも服を着たまま、浴室に突入しようとしていることに気が付いた。


「ああ!? ううん違うの! その、お風呂に入りたい訳じゃなくて、その、あの、……待ってます、外で」


 喋っている途中で自分以外みんな裸だと言うことにも改めて気が付いて、なんだか急に恥ずかしくなって俯いた。


「十香さん?」


 浴室から今日子さんが呼んでいた。


「あ、ほら、呼んでるよ、私待ってるから、ゆっくりしてきて大丈夫だから」

「え、あ、はい……」


 向こうに押しやるみたいな私の言葉に十香さんは頷いて小さな疑問符と一緒に浴室へと入っていった。


「はあ、何やってるんだろう私」


 そう呟いて引き返そうとして、だけどどうにも気になってしまってまた浴室の方を振り向いた。十香さんではない、彼女の背中越しに見える今日子さんのことが無性に気になっていたのだ。



 私は一人、銭湯の待合室に移動した。待合室は脱衣所の外にあり、もちろん男女兼用で、フロントで買える飲み物やアイスなんかを片手に数人のお客さんがくつろいでいる。私はなるべく人がこなそうな隅っこの長椅子の端に腰を下ろした。

 お風呂上がりの少し気怠くも心地良い空気を年季の入った扇風機がかき混ぜている。


「ふう」


 落ち着いた雰囲気に一息吐いてから顔を上げて今自分が出てきた場所に視線を送った。

 フロントの横、女湯の暖簾。

 別にそれ自体が見たかった訳ではない。その先に居る今日子さんのことを考えていたのだ。


 これ、やっぱり今日子さんの……。


 これとは今私の頭の中に浮かんでいるイメージのことだ。

 駅で彼女の涙を見た時から私の頭の中にはずっとあるイメージが浮かんでいた。


 空っぽの部屋。


 ごく普通の部屋だ。例えば女性が一人暮らしをしているような。家具だってちゃんとある。だけどその部屋には決定的に何かが足りない気がするのだ。そしてそこから感じる、不安、迷い。それは今の自分が感じているものと良く似ていた。


 そのイメージに集中していると、お風呂で話している内容なのだろうか、微かに今日子さんの声が聞こえてきた。


『あ、あの、私、ま、漫画家になりたかったんです……』


 言葉と一緒に彼女の緊張と不安が、気持ちが、同じお湯に浸かって波紋を感じるように伝わってくる。


 私、今日子さんと同調している……?


 それは、感覚だけだけれど、十香さんとお饅頭を食べた時と同じように。

 どうしてなのかは分からない。十香さんの影響か、はたまた龍のいたずらか。だけど確かに情報として今日子さんの考えていることが頭の中に流れ込んでくる。


 伝わってくる彼女の言葉にあわせて私の頭の中のイメージが揺れる。


『だ、大学に在学中にプロとしてデビューするのが目標でした』


 さっきと同じ部屋の中、壁際の机に向かっている彼女がノートに目標を書いている。


『大学は実家から通える所だったんですけど、実家を出て一人暮らしを始めて、希望に燃えてました私』


 顔を上げた彼女が振り返り部屋の中を見渡す。その部屋は空っぽではなかった。

 本棚、ポスター、画材、資料。彼女はそれらを見るとほんの少し鼻息荒く笑った。傍らには小さなドラ饅が一つ。


『あの頃は本当に漫画漫画で、夢中で机に向かってました』


 彼女はいつも部屋に居た。ときどきウロウロしてみたり、床に寝転がって見たり、体操をしたり、だけど必ず机に戻って行く。


『賞に送ったりもして、いいとこまで行ったこともあるんですよ』


 雑誌を手に飛び跳ねて部屋の中を動き回る嬉しそうな彼女。棚の角に足の指をぶつけてうずくまるも笑っている。


『でも、そこまででした。それ以上なかなか前に進めなくなって、段々周りの人達も就活とか進学とかで忙しくなっていって、色んなプレッシャーもあったりして、私も焦り始めて』


 いつものように机に向かっている彼女。だけどその顔は今までと違い苦しそうに歪んでいる。目の前の原稿は白紙のまま。


『このままじゃいけないと思って、それで、最後に、大学の最後に、これで駄目なら、漫画家の道を諦めるって決めて』


 怒り露わに部屋に帰ってきた彼女、勢いのまま机に座り作業を始める。


『駄目でした。私』


 無表情のまま雑誌を置いて部屋を出て行く彼女。

 誰も居なくなった部屋。机にはボロボロのノート。

 その上にストンと音を立て小さな棘が落ちる。そこから波紋が広がって、部屋にあったはずの画材やポスターが消えて行く。

 気が付けば机の上にあったノートもドラ饅もなくなっていた。


 静かだった。彼女の居なくなった部屋。大事な物がなくなった部屋。私はいつの間にかその寂しい部屋の中に立っていた。そして気が付いた。知っている感覚に。その部屋は私にとっての町と同じだった。


『それでこの春から片付けしてたんです』


『でもなかなか片付かなくてですね、やっと、昨日終わったんですよ』


『これで終わりだーって、そう思って、気が抜けちゃってたんですけど、今日お店で、店長に龍神祭のポスターの絵を描いてくれって頼まれて、絵を描いてたでしょって言われて。終わったつもりでいたのに、思いもよらない所から、そんなこと言われて、なんか一気に思い返しちゃったりして、ぐちゃぐちゃになっちゃったんです』


 さっきよりも明るい声。けれど伝わってくる気持ちは違う。


 嫌だ。

 嫌だ。

 嫌だ。


 ズキズキと胸が痛む。机に刺さった棘が痛い。けれど動けない。棘を抜くことも部屋を出て行くこともできない。不安と迷いが茨のように絡みつく。ただ立ち尽くすだけ。


 このまま何もしないで、できないで、時が来るのを待つしかないのかな……。私……。


 完全に同調し、そんな考えが頭をよぎって、絶望感に覆われそうになっていた時。

 不意に部屋の扉がノックされた。そして扉を開け彼女が現れた。


「飲みましょう」

「へ?」

「私付き合います! 今夜は飲みましょう!」


 十香さんが遠慮会釈なく部屋に上がり込んで来たのだ。

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