宮下 遥 10
銭湯を出た私たちは途中コンビニに寄って買い物をしつつ
アパートのゴミ置き場の前を通る時、棘がズキリと痛んだ。だけどそれ以外は銭湯で感じたような痛みを感じることはなかった。心に上がり込んで来た
イメージで見たままの部屋も十香さんと居ればパジャマパーティーの会場になってしまって、今日子さんも気が紛れているようで、私も三人で話をしているみたいで本当に楽しかった。
十香さんはポスターのことをちゃんと覚えてくれていて、ちょうど今日子さんの助けにもなるからと弟さんに頼んでくれた。
私は今だ消えない迷いや不安と、変わらず協力してくれる十香さんに対する感謝の気持ちや申し訳なさ、それと今日子さんの力になれた嬉しさとかが混ざってしまってちょっと複雑な気持ちだった。
そんな瞬間もあったけれど私たちはほとんどの時間を他愛のない話で盛り上がって、ずっと仲のいい友達であったかのようにこの夜を笑って過ごすことができた。
夜も更けてパーティーも終わり私以外の二人は眠っていた。今日子さんはベッドで、十香さんは床の上に寝袋で。私も十香さんの隣で横になっていたのだけれど、どうにも眠れなくて一人起き上がった。
ふと気になったのは今日子さんの机。部屋の端っこ、銭湯で見たイメージ通りの場所にある。棘の刺さっていた机だ。
私は静かに、別に音が鳴る訳ではないのだけれど、せめて十香さんを起こしてしまわないように机に歩み寄った。
シンプルな勉強机で、机の上には小さなカレンダーと中身の少ない大きな筆立て、それと二つ重ねて置いてあるブックエンドがあった。
それらを見た時、暗くて良く見えないはずなのに私にはすぐに分かった。
天板についた沢山の小さな傷、古く止まったままのカレンダーの日付、筆立てには大きさに見合ったものが入っていたはずで、ブックエンドも大事な本やノートを挟んでいたのだろうということが。
大切な物が無くなってしまった机。私はそれに触れようとした。膝を抱えて泣く友人の肩に手を置くように。そして指先が机に触れた一瞬あと。気が付くと私の周囲の景色は変わっていた。
夢を見ている。
そう思ったのは自分が立っているここが今日子さんの部屋ではなく彼女と出会った川辺だったからだ。
これはまた彼女の、それとも私の夢なのだろうか。
ぼんやりとしたままの私の瞳に乱反射する川面の光が映る。
無意識に掌に視線を落とした。机に触れた感触を確かめたかったのかも知れない。
すると違和感に気が付いた。
指先が硬いのだ。ペンを持つ時に当たる場所が硬くなっていた。
今日子さんの手? じゃあやっぱりこれは彼女の夢……。
そうなのだろう。私は今もまだ彼女と同調しているのだろう。
私はその指先にそっと触れた。そして寝る前の二人の会話を思い出した。
「十香さんはどうして旅をしているんですか?」
そんな風に彼女は切り出した。
「私は自分の物語を探しているんです」
十香さんはそう答えた。
私は横になりながら黙って二人の会話を聞いていた。
「理由は、本当は自分でも良く分かっていないのかも知れないのですが、そうですね、きっとそれが私の夢だから、でしょうか」
「夢……」
「私も大事なその夢を失くしたくないんです。もしかしたらただの我儘かも知れませんが。ねえ今日子さん、私思うんです、我儘かも知れないけれど、でもそんな風に我儘でいいんじゃないかって。例え都合良くたって、自分の心に対してくらいは真っ直ぐでいていいんじゃないかって。もちろんそれで周りの人に迷惑や心配をかけ過ぎるのはあまり良くないこととは思いますが。それでも私は苦労をするなら夢のためにしたいですし、きっとそんな夢を前にする時が来たら、形振り構わずそれに手を伸ばすと思います。だってこれは私の人生で、私は私だから」
胸が締め付けられているような感覚がした。今日子さんの感覚が伝わってきたのだ。でもそれだけじゃないことも分かっていた。私の手も私の心を握りしめていた。
回想を終えて私は拳をゆっくりと開いた。いつの間にか握りしめていたのだ。掌には爪のあとが残っている。
「私も……」
あとに続く言葉を呟こうとした時、開いた掌に上から何かが落ちてきて綺麗に納まった。
「え?」
手の中にあったのはドラ饅だった。焼印は昇り龍。シークレット。
上から声も聞こえてくる。もちろん聞き覚えのある声。
「すみませーん! 大丈夫ですかー?」
背後の崖上を振り返ると木々の間に微かに彼女の姿が見えた気がした。
「すぐ取りに行きますー!」
しかしすぐに体を引っ込めてしまいはっきりとは確認できなかった。
「あの時の……」
これは今日の記憶の再現なのだろうか。そんな考えが過った時、掌に熱を感じた。
「あ……」
手の中が熱かった。視線を戻すとドラ饅は光の球体になっていた。小さな、けれど力強い光だった。不思議と目が離せなかった。
その光の中を一瞬龍が泳いだように見えたかと思うと、それに導かれるように私の意識は光の中心に吸い込まれて行く。
後方へと流れて行く光の中に今日子さんの記憶の欠片が幾つもキラキラと輝いて見えた。
それは幼い彼女が夢中でノートに絵を描いていたり、その絵を見せて友達と無邪気に笑っている姿。色んな表情、だけど、どれもが喜びに満ちた顔をしていた。
そしてやがて光の流れの中、聞こえて来る彼女の気持ち。
その声は複雑で、千差万別で、とても聞き取れなくて、痛くて、切なくて、可哀そうで、みっともなくて。
「ああ……」
だけど、純粋で、熱くて、可愛くて、結局単純な気持ち。
好きだ。
「そっか」
気持ちを理解するのと同時に分かった。これは単純な記憶の再現ではなくて、彼女の心の変遷を辿っているのだと言うことに。彼女が失くしてしまったものを取り戻そうとしているのだと言うことに。
ゆっくりと目を閉じ、開ける、すると意識は川辺に戻っていて川面の光を私は見ていた。
それから気が付いた。彼女が居ることに。
十香さんではなく今日子さんが川辺に現れたのだった。
疲れた顔をして諦めて引き返そうとしている。
だけど彼女は私がドラ饅を手にしていることに気が付くと真剣な顔でその手を差し出した。
私は聞いた。答えはもう分っているのに。
「これがほしいの?」
彼女は頷いた。
「本当に?」
また頷いた。
「でもまた失くしちゃうんじゃないの?」
ほんの少し意地悪をしたくなった。なんでだろうか、彼女が愛おしかった。深く心に触れてしまったからだろうか。その心が、私に、似ているからだろうか。
彼女はその問いに首を横に振った。
「本当?」
今度は縦に振った。
「じゃあ、もう失くしちゃ駄目だよ」
彼女は頷いて改めて手を差し出した。
その時、私の頭にごみ置き場のイメージが浮かんだ。そして車の音も。
『急いで』
聞こえてきた声は図書館でも聞いた龍の声だった。
私はその手にドラ饅を置くと、そのまま彼女の手を包み込んで言った。
「ね、そろそろ起きて」
優しく。
彼女はなんのことか分からないように首を傾げた。
「起きて」
ちょっと強く。
まだどうしたらいいか分からない様子で立っている彼女。
「起きろー!」
ついに私は叫んでしまった。
「わあ!」
飛び起きた今日子さん。
同時に私も彼女の部屋に戻ってきていた。
しかしまだ彼女の意識と繋がっているのか目の前の机には刺さった棘が見えていた。両手で握り籠めてしまうほどの棘。
それを見ていると窓の外から車の音が聞こえた。夢の中で聞いた音だ。
ズキリと胸が痛んだ。
「ん、おはようございます……」
十香さんも目を覚ました。
「どうしたんですか?」
寝袋から抜け出した彼女が言う。彼女は私の様子にも気が付いたようだった。
「ノートが……」
今日子さんが声を出す。
車の音はもうそこまで来ていた。
「私、どうしよう……やっぱり……」
彼女の迷いを感じる。私は目の前の棘を見て思わず手を握りしめた。指先が硬かった。
「今日子さん」
十香さんが呼びかける。
車の音は遂にこのアパートまでやってきた。人の声と戸を開ける音も聞こえる。
この棘が、彼女の決断の邪魔をしている……?
私は机の上の棘に手を伸ばし掴んだ。
今日子さんが呟く。
「私……」
掴んだ手に力を込める。
痛い。
棘の表面にも小さな棘があって、それが掌に指に食い込み刺さる。
それでも握る。強く。両手で。強く。
根が這うように痛みが広がる。ズキズキと体中を駆ける。血が流れ出ているのか、掌が、体が熱い。ボロボロになっていく手の感覚。痛くて痛くて痛くて痛い。
それでも、それでももう彼女は手を離さない。
「私は……!」
鼓動を感じる。力強く。ズキンズキンと。
その時私は理解した。
痛みは彼女の鼓動だ。
「私は……!」
棘は邪魔をしていた訳じゃない。教えてくれていたんだ大切な物の在り処を。忘れてはいけないものを。
ふっと手応えが変わった。棘が抜ける予感が走る。
そして彼女はついに吐き出す。
「私、嫌だ、やっぱり嫌だ! ノート捨てたくない! 諦められない! 捨てたくないよ!」
棘が抜けた。
私は叫ぶ。
「十香さん!」
「はい!」
十香さんは力強く笑顔で返事をした。ずっと待っていた合図が聞けたとその笑顔は言っていた。彼女は振り返ってすぐに部屋を飛び出していった。
私、今日子さんの心も、彼女の体よりも早く走り出す。十香さんを追いかけていくように。
部屋を飛び出し階段を駆け降り街を走る。大袈裟に弾む鼓動はもう痛くない。
分かれ道で立ち止まって振り返った。追いかけてきている今日子さんの姿が見える。私は思わず声をあげた。届くはずは無いのに。
「こっちだよ! 早く!」
しかし彼女はまるでその声が聞こえたかのようにこちらを振り向いて走り始めた。
少し安心して、ふと手を見る。ずっと握りしめていた手の中にはペンがあった。使い込まれた漫画を描くペンだ。
もう一度顏を上げると走ってきた彼女はもうすぐ目の前だった。
私はペンを持っている手を突き上げた。
瞬間、彼女が重なるように、迷いの霧を抜けるように、私を駆け抜けた。彼女の心が彼女に返っていく。手の中のペンを彼女が受け取る。
「頑張れ!」
届け! 強くそう思った。
そして私は振り向いて遠ざかる彼女の背中を見送った。
彼女の上には眩しいばかりの青空。
私は彼女を想いながらも感じていた。迷いの霧がもう晴れていることを。彼女の決断が私の心の霧まで消してしまったのだと言うことを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます