湯本 康二 2
数日前、昼休みに母と電話で話した時のことだ。
『だから、そう言う訳だから、お願いね』
「いや、急にそんなこと言われても俺も暇じゃねえからさ」
『私も忙しいのよ。今度の日曜日に聞きに来るって言ってるし、私その日旅行に行く予定なのよ』
忙しいって、旅行に行くから忙しいってことか? こっちは仕事だよ。
なんて思ったけれど一応声には出さないでおく。その方が安全だ。
『それに私じゃなくてあんたの方が正確に話せるでしょ』
「まあ、それはそうだろうけどさ」
『いいじゃない、たまにはお母さんの頼みも聞いてくれたって。あんた全然帰って来ないんだから。最近お兄ちゃんとは話してるの?』
「いや、まあ、それは、してねえけど」
兄とは数年、いや、十年来まともに会話をしていない。まあ、兄弟間の不仲なんてのは何処にでもある話だ。
『結婚は? いい人いるの? なんならお母さんが紹介してあげようか?』
これは最近増えた母親からの婚活の押し売りだ。下手をすると長くなるので注意が必要だ。なのですぐに軌道修正を図る。
「いや分かった分かったよ。俺が会うよ。でもその日、日直で学校に行ってるから夜とかに……」
『学校? 分かった。じゃあ学校に行くように言っておくから』
「は? 違っ、そうじゃなくて……」
『じゃあ、お母さん忙しいから』
電話の向こうで母の仕事仲間と思しき人が母を呼ぶ声が聞こえた。お昼行きましょうとか、そんな風に言っているように聞こえた。母はその声に軽快に返事をしていた。
「ちょっと、母さ……!」
『お願いね!』
母はそう言うと一方的に電話を切った。
「……あーもう」
通話終了の画面を見ながら吐いた溜息は残暑の熱の中に散って行った。
母には参ったものだ。そう思うも結婚や兄のことを持ち出されるとどうにも強気に出られなくなる。母にもそのことがバレていてどうにも利用されている節さえある。
「先生さよーならー!」
非常階段にいる姿を見つけた児童が下から手を振っていた。俺はそれに答えるように手を振り返した。
「気を付けて帰れよー!」
今日は夏休み明けの短縮授業の日だ。子供たちにとっては夏休みの延長戦のようで楽しいのだろう。はしゃぎ騒ぐ声があちこちから聞こえてくる。
俺もそうだったな。
背を向け走って行った子供たち。ガチャガチャと揺れるランドセルの音。
非常階段から遠くそれを見ていたはずなのに、いつの間にかまるで目の前にいつか自分が追いかけた二つのランドセルがあるかのような錯覚を覚えていた。
まあ、いいか。
確かに今の俺ならあの頃の話をするには持って来いの状態だろう。ただでさえこうやって思い出してしまうのだから。
そんなこんなで数日前に母に押し付けられた約束。その約束の日が今日だった。
結局母が勝手に決めた日程から変更することはできず、俺自身の日直の予定も変更できなかった。
それで苦肉の策で正面突破だ。正々堂々学校への来客として迎えることにした。どうせ来客と言っても具体的な内容は日直である俺にしか分からない。もしもあとで内容を聞かれたとしてもなんとでも誤魔化しは効く。別に悪いことをしようって訳でもない。
強いて言えば一緒に日直をしている石原への弁明だが、まあ、同期のよしみでなんとか許してくれるだろうと思う。石原はいいやつだ。それは同期の俺が一番良く分かっている。
職員玄関に着いた。
職員玄関は職員室の隣、校舎の二階にあって外階段で階下と繋がっている。
その人は玄関の硝子戸の向こうに背を向けて立っていた。女性だった。麦わら帽子を被り長い髪を後ろで柔らかく束ねている。横には彼女の物らしいキャリーバッグが置かれていた。
やべ、待たせちまったか。
忘れていたせいもあって約束の時間を少し過ぎていた。
俺は慌てて外履きを突っ掛け外に出て彼女に挨拶をした。
「すみません、暑い所お待たせしました。
彼女は振り返ると帽子を取り頭を下げた。目の前に立って分かったのだが、石原より背の低い小柄な人だった。
「いえ、こちらこそお忙しい所お時間頂戴いたしましてありがとうございます。私は
お辞儀でずれた眼鏡を直す彼女の額には汗が浮かんでいた。帽子の下にあった髪の毛も少々汗ばんで見えた。やはり待たせてしまったようだ。
「あの、暑いですからとりあえず中へどうぞ」
そんな風にして俺は彼女、一ノ瀬さんを迎え入れた。
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