湯本 康二 1
最近、何故か良く昔のことを思い出す。昔と言うのは自分がまだ小学生の頃のことだ。
仕事にも慣れて他のことを考える余裕が出来たからかも知れない。確かに教職に就いたばかりの頃は目の前の仕事に追われてそれどころではなかった。だとしたら、そんな風に思い出すのも悪いことではないのだろう。
それはふとした瞬間。例えば、駆けていく教え子の後ろ姿とか、上履きを廊下に放り置いた音とか、乾いた校庭の匂いとか、午後の授業のどこか寂しい雰囲気とか。そんなものを感じた時、まるで自分が小学生としてその場にいるような錯覚を覚えてしまうのだ。
それは今も同じで、誰もいない廊下を抜けた風に昔見た光景を呼び起こされていた。
「先生、手止まってますよ」
少し棘のある声が俺を目の前の現実に引き戻した。
「あ、すまん」
今日は休日で、廊下にも教室にも児童たちはいない。だけど俺たちは日直だ。だからこうして休日なのに学校に来ていた。
「なあ」
ポスターを貼りながら石原に話しかけた。
石原も並んでポスターの掲示作業をしている。児童が提出した夏休みの宿題のポスターだ。背の高い俺が上の方を貼り、石原が下の方を担当している。
「なんでしょうか?」
「なんか今日、刺々しくない?」
そんな素朴な問いに変な間が開く。と言うことは俺の指摘は間違いでは無いと言うことだろう。
「気のせいでしょう」
石原はこちらを見ない。
「いや、気のせいって、自覚してるでしょ」
案の定石原は黙る。
「ほら、黙った」
石原とは昨日今日の付き合いではない。態度や雰囲気で機嫌の良し悪しくらいは分かる。
「なんかあったんなら話くらい聞くけど。ほら、同期のよしみってやつ?」
まあ、ガス抜きの一つくらい付き合ってやってもいい。
「……うるさいな」
「ん?」
「うるさいな! さっさと仕事して! ただでさえ休日出勤なのに余計にイライラさせないで!」
「……すんません」
少し調子に乗ってしまった。自分の悪い癖だ。
とにかく石原はなんだか虫の居所が悪いらしい。それだけ分かっていれば十分だとしよう。
俺は口を噤んで作業を続けた。
廊下の掲示スペースにポスターを一枚づつ画鋲で貼り出していく。
今貼っている夏休みの宿題のポスター、そのテーマには色々なものがある。交通安全や選挙、人権問題など。その中で環境保全のテーマで描かれたポスターが俺の目を引いた。海の絵が描かれたポスターだ。
黙っていれば良かったものの、ついつい言葉が出てしまった。
「なあ、夏休みどっか行った?」
それが地雷だったらしい。
「……行ってない」
隣から地を這うようなローテンションな声音で返事が返って来た。
ここで適切にルート選択をして地雷原を抜けることが出来る、あるいは潔く撤退を選ぶことが出来る、そんな奴が出来る男なんだろう。しかし普段から鈍感やらデリカシーがないだ言われている俺だ、付き合いの長い同僚の機嫌の良し悪しくらいは分かれども、声音で相手の気持ちを正しく察するなんて出来る訳もなく、ましてや女心なんぞ分かる訳もなかった。まあ、ようするに結局見事に地雷を踏み抜いた。
「あれ? 彼氏と海とか行かなかったの?」
石原の動きが止まった。
「ん? あれ? どした?」
「なんで、なんで私はこんな奴と一緒に……しかも休日に仕事なんか……」
「え? どした? あれ? ごめん変なこと言ったか俺?」
石原が鋭い眼光でこちらを振り向いた。
「普通女性に夏休みのこととか聞く?!」
「え? え? 駄目だった? 駄目なやつなの? この質問」
「聞くなよ!」
やってしまったと思った俺はなんとか誤魔化そうとした。そして新たな地雷を次々に踏んで行った。
「いや、だって石原ほら、彼氏と楽しく過ごしたのかなあって。幸せお裾分けして貰いたいなあとか思うじゃん」
「彼氏いねーよ!」
「え?! だって前にいるって言ってたじゃん」
「何年前の話だよ!」
「え? だってほら去年とかも」
「ふられたよ! もうとっくに!」
石原の言葉を最後に二人の間に沈黙が訪れた。残ったのは焼け野原だ。
廊下が静かになったことで夏を惜しむように鳴く蝉の声が良く聞こえた。
「ごめん」
「いえ」
「飯奢るよ」
「そうして下さい」
それから俺たちは黙々とまたポスターを貼り始めた。
しかしどうにも自分はこう黙々と言う状況が苦手のようで、つい気が散ってしまった。今度は龍神祭のポスターを手にした時だった。
「龍神祭行ったことある?」
「ない」
「え? ないの? 地元なのに」
「悪い?」
「いや別に」
行ったことないのか。だったら……。
「……今年、龍神祭の夜に彗星が見えるんだってな」
「それで?」
「あ、いや、すまん……」
一向に上がらない石原の声音に、さっきと同じ危険地帯の感じがして、それ以上話を広げることを止めた。別に機嫌を損ねたい訳ではないのだ。
会話を止めてまた作業に向き合う。
しかし頭は芋づる式に記憶を引っ張り出していた。それは昔、龍神祭が中止になった年のことだった。
龍神祭か……。
記憶が過去に飛び小学生の頃の俺が振り返ろうとした時、強烈に近々の記憶がぶり返した。
『お願いね!』
それは少々やかましい母の声だった。
「あ、やべ、そうだ、悪い、来客の対応があるんだった」
母からの頼まれごとを思い出したのだった。
「は?」
「早く終わらせねえと」
持っていた残り数枚のポスターを一息に貼った。
少し雑になってしまったけれど、まあ許容範囲だろう。
「悪い、あと頼むわ」
あとは低い位置だけだ、量もそんなに残っていない。石原一人でも大丈夫だ。
「ちょっと……」
俺は石原を置いて、ついさっき貼ったばかりのポスターの並ぶ廊下を早足で駆け抜け職員玄関に急いだ。
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