雲川 深雪 6

 夏休み後半は前半にも増して忙しかった。昼間は委員会の仕事、図書室で勉強、家に帰ったあとは着物制作。

 日中も家で着物を作っていても良かったのだけれど、先輩と一緒に勉強できる機会を減らしたくはなかった。

 先輩とは着物が完成したら見てもらう約束をした。私としてはどんなに酷い出来の物になったとしても見せるつもりだったし、先輩にもキチンと見てもらって、私を焚きつけた責任を取ってもらうつもりだった。


 着物は手芸用品店で見つけた撫子なでしこの柄の生地を使って作ることにした。作るのは夏用の単衣ひとえの着物。裏地が必要なあわせの着物に比べて初心者向きだと思ったのと、単純に作り始めた季節が夏だからと言うのが理由だ。着る時のことは特に考えていなかった。


 着物を作り始める前、しまい込んだ裁縫道具箱を出してきた時、ほんの少し緊張した。使い慣れた道具たちに叱られるような、そんな気がしていたのだ。

 だけどそれは余計な心配だった。

 蓋を開けてみれば、はさみも針も物差しも、道具の一つ一つが私を待っていたかのように迎えてくれた。


 まあ、それは都合のいい錯覚かも知れないけれど。


 要領の良くない私の作業は遅くて、予定通りに進まなかったり、何回も失敗してやり直したりもした。

 けれど、楽しかった。

 いつか憧れた着物を作る魔法使い。和裁士。その魔法が私の手元で小さく光っている、そんな風に思えた。



龍神祭りゅうじんさい?」


 夏休み明け、その日は珍しく由美ゆみと二人でまだ明るい帰り道を歩いていた。委員会の仕事が無く、由美の部活も休みだったからだ。

 図書室に行ってみようかとも思ったけれど、着物制作が佳境に入っていた私は家で作業を進める方を選んだ。早く完成させて先輩に見せたかったのだ。

 結局、夏休み中に着物を完成させることは出来なかった。だけど着実に前進はしていた。だから私はへこたれるどころか反って燃えていた。


「そうそう、深雪みゆき行ったことない?」


 由美が言っているのは地元にある珠守神社たまもりじんじゃで行われるお祭りのことだ。何年か前に中止された年もあったけれど毎年この時期に開催されている。


「ううん、珠守神社に行ったことはあるんだけど、龍神祭には行ったことないな」


 別に避けていた訳ではない。昔からあまり社交的ではない私には、たまたま龍神祭に行く機会がなかっただけだ。

 そっか、と返事をくれた直後に由美は何かを見つけた。


「あ、あれあれ」


 由美が指さしたのは、街頭の掲示板だった。ちょうど私たちの正面、公園を背にしたT字路にそれはあった。

 小走りでその掲示板の前まで行き掲示物を眺める由美。


「おぅ、この絵凄いね」


 私も追いついて並んで同じ物を見る。

 掲示板には龍神祭のポスターが貼られていて、そこには大きな龍が筆の勢いのまま大迫力で描かれていた。とぐろを巻いて睨みを利かせたその龍の絵は、そのまま神社の天井絵にでもできそうな感じだった。


「本当。凄い勢いだね。これ確か毎年公募で選ばれてるんだよ。優秀作品が次の年のポスターになるって言う」


 そう言えば小学校の頃の夏休みの宿題にもあったな。


 ぼんやり二人でしばらくポスターを眺めた。


「ね、それでさ、どうかな、深雪、今年龍神祭行ってみない?」

「うーん、そうだなあ……」


 断る理由は特になかった。祭りの日もまだ少し先だ。その頃までには着物も作り終わっているはずだ。


 いいよ。一緒に行こう。


 そう答えようとした時。


「ほら、着物とか着たりしてさ」


 由美が言った。


 その言葉を聞いた瞬間、私の頭は初めてお祭りと着物を細い糸で結び付けた。そしてさらに手早く縫い合わせていくように考えた。


 お祭り、着物、一緒に、誰と? 由美と? ううん、先輩と。

 そうだ、着物を理由に先輩をお祭りに誘うことができる。

 先輩とお祭りに行きたい。


 由美には申し訳ないが、私は一瞬で完成したそのアイデアに包み込まれてしまった。


「あ、あのさ、実は、そ、その」

「ん? どしたの?」


 突然どもり出した私に由美は訝しそうに眉根を寄せた。


「お祭り、その、誘ってくれて嬉しいんだけど、あの、私、他に誘いたい人が居るって言うか、その」

「え、あ、いいよ。その人も一緒に行こうよ。問題無いよ」


 そうではない。


「あ、そうじゃなくて、その、その人と二人で行きたいと言うか……」


 そこで由美は勘づいたようだ。


「え、え、え? 嘘、え、何? え? どう言うこと? ちょっと詳しく聞かせて深雪さん」


 詰め寄る由美がいつかみたいにニヤニヤしている。

 私は顔を赤くして目を逸らした。

 だけどそれは由美の勘に確信を持たせてしまうような行為だった訳で、追及の手を緩めることは全くできなかった。

 結局、その日私が由美の誘いを断ることを許されるには、先輩とのことを洗いざらい話すしかなかった。



 それから数日後の夜。

 えりそでの縫い付け、縫い目の処理、すその仕上げ、各種工程を経て最後の作業としてのアイロンがけ。


 高熱の金属底がしわを伸ばし通った跡を熱く滑らかにしていく。

 私は手を動かしながら着物の生地の上に先輩との思い出を浮かべていた。


 図書室で初めて会った時、顔も見れなかった。

 日誌を渡している姿を見た時、その優しさになぜか少し安心した。

 窓越しに見ていた背中、本当は振り向いて欲しかったのに何もできなかった。

 花壇の前で見た笑顔と声はきっとずっと忘れられないのだと思う。


 ううん、ぎこちない挨拶を交わしたことも、一緒に勉強したことも、二人で帰ったことも、先輩と過ごした全部を私は忘れない。


 着物を作るきっかけをくれた。失くしかけてた和裁士の夢を思い出させてくれた。

 先輩は私の中にわだかまっていた冷たくて硬いものを、まるで優しく糸を解くように消してしまった。

 今ならはっきり分かる。先輩と出会って私は変わった。つまらないと思っていたことが楽しくなった。何事も前向きに考えることができるようになった。


 だからこそ知りたい。


 私は……。


 そこで手が止まった。


「……終わった」


 アイロンがけが必要な個所はもう残っていない。全作業が終了したのだ。

 私は完成したばかりの着物を恐る恐る手に取り持ち上げて広げた。

 散りばめられた撫子の花が、はにかむように目の前で揺れた。


「着物だ」


 私が作った。


「本当に着物ができた」


 私が作ったんだ。


「ううううう、なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ……!」


 熱い。生地も、心も。

 叫んでしまいたかった。

 走って走って走って走ってしまいたかった。

 このことを早く誰かに伝えたかった。


「私、着物、作った……!」

 

 それから衝動のままに立ち上がって完成したばかりの着物と一緒に一頻り部屋の中でジタバタ動き回った。

 落ち着いたのは階下から親に「何やってるの!」と注意されたあとだった。


 着物を抱きかかえて仰向けになり、うるさい心臓の音を聞きながら荒い呼吸を整える。


 そして想う。先輩のことを。


 そうだ、私は知りたい。この気持ちが恋なのかを。

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