雲川 深雪 5
そして夏休み。
先輩は言っていた通り図書室に来ていた。
図書室は主に受験生のために夏休みも開放されていたのだ。
私は夏休み前と同じ、いや、譲ってもらった分もあって、休みの前よりも多く花壇の世話に通った。
夏休み中、先輩は図書室の窓を正面に外が見える位置に座っていた。
それを私に気を遣ってくれたのかな、と思うのは思い上がりだろうか。
最初は挨拶程度の日もあったけれど、花壇の前で会話をするだけだったのが、いつしか図書室の隣の席で勉強をするようになり、ついには一緒に帰るようにもなった。
まあ、一緒に帰ると言っても、校舎から学校の近くの交差点までの短い間だけど。
そんな夏休みのある夕方。
日は傾いているけれど空はまだ青く、涼しい風が心地いい時間。
私と先輩の影が地面に並んで伸びている。図書室の開放時間が終わり、一緒に帰路についたところだった。
「宿題終わった?」
「はい。こんなに早く終わったの初めてかも知れないです」
何気ない会話の中で、ふと気になって私は聞いた。
「あの、先輩はどうして勉強してるんですか?」
「ん?」
「その、いつも凄く真剣に勉強してるので、ちょっとだけ気になっただけなんですけど」
少しだけ間を置いて返ってきたのは小さな声にのせた答えだった。
「この町から出て行きたいんだ」
「……え?」
思わず聞き返してしまった。
「ん、ああ、ちょっと、行きたい大学があるんだ」
そう言い換えた先輩。
だけど私にはそれがどこか取り繕ったみたいに聞こえて、言い直す前の言葉が本心のように思えてしまった。
「あの……」
どうして、この町から出て行きたいんですか?
そう聞きたかった。だってそこに先輩の本心がある気がしたから。だけど、私よりも早く、まるで質問を覆い隠すかのように先輩が私に聞いた。
「
「わ、私は、その……」
将来やりたいこと、そう聞かれるとほんの少し胸が痛んでしまう。それは、
「やっぱり植物とか園芸関係?」
私の疑問を優しく遠ざけるように重ねられる問。
「あ、いえ……」
先輩の本心は気になっていたけれど、先輩に聞かれたことを無視したくなかった。先輩の前で嘘は吐きたくなかった。
「私は、
「和裁? 和裁って、着物とかの?」
「……はい」
和裁と言う言葉を口にした時、声が微かに震えてしまった。緊張していたのだ。それはいつも先輩の隣で感じているものとはまた少し違う緊張だった。どちらかと言えばもっと冷たくて硬い。
「専門学校に、行きたいって、思ってました、以前は……」
「以前は? 今は違うの?」
俯きそうになっていた顔を無理やり上げた。
「えへへ、ちょっと分からなくなってしまいまして」
手芸部を辞めた切っ掛けは部員間の不仲だった。もちろんそこには色々な理由があったのだけれど、結果から言えば、私は和裁から遠ざかってしまった。ほんの少しだけ持っていた自信も揺らいでしまった。だから今は進路のことは分からない。
「そっか」
そう頷いたあと、先輩は黙って、私も何も言えなかった。
それから虫の声だとか風鈴の音だとか、夏の音の中をしばらく歩いただろうか、ふいに先輩が口を開いた。
「雲川は和裁のことを嫌いになったの?」
「あ、いえ……」
嫌いになった訳ではない。今でも好きだ。その気持ちは変わっていない。そのはずだ。ただ、未来に繋がっていたはずの糸が、自分の嫌な経験と結びついて、私に絡みついてしまっているのだ。
「だったら作ってみたら? 着物」
「へ?」
私にとって突然の、そして思ったこともない提案だった。着物を作るなんて大それたことは、勉強のずっと先にあるものだと思っていたからだ。
「俺は和裁のことも雲川の事情も詳しくは分からないけど、ただ、そう言うの、大切なものを簡単に忘れられない気持ちは分かるからさ」
先輩はどこか寂しそうな表情を浮かべていた。それは、花壇の花を見ている時と同じ顔のように思えて、私の胸は苦しくなった。
一、二度、呼吸をして気持ちを落ち着かせ、それから私は口を開いた。
「あの、でも、着物を作ったことはなくて、とても出来るものじゃ……」
「それでも、やってみたらいいんじゃないかな。失敗したら失敗したで、きっと分かることがあると思うよ」
「で、でも……」
「ほら、今年はもう宿題も終わってるし」
「そう、ですけど……」
「ね」
私に向けられた先輩の微笑み。優しいけれど意外と押しが強い。
しかも、ただでさえ私は先輩の笑顔に逆らうことは出来ない。
「……はい」
結局、そんな風に肯定の返事をしていた。
先輩と別れた私は商店街の手芸用品店に立ち寄った。
商店街の中でも比較的大きな建物で、売り場も一階と二階の二つ。一階は主に観光客向けの商品を取り扱っていて、二階が目的地、裁縫道具や素材のフロアとなっている。
手芸用品店に来るのは久しぶりだった。手芸部を辞めてからここも足が遠のいていた。
「着物か……」
先輩には作ると返事をしたものの本当はまだ決心がついていなかった。いざ取り掛かるとなればそれなりの準備と覚悟が必要だからだ。なんとなくできるものではない。
私は生地売り場へと向かった。
生地売り場では壁面に沿って並んだ棚に、ロール状に丸められた生地が所狭しと置かれていた。
それは少し前まで良く見ていた光景で、最近は敬遠していたのに、色とりどりの生地を見ると悔しくもワクワクと胸が騒いでしまった。
「やっぱり和柄かな」
そう思って和柄の生地がまとめられている一画を見る。
幾つか手に取ってみたのだが、その中の一つで手が止まった。
「これ……」
棚からその生地を取り出し少しだけ広げてみると、それは白地にピンク色の
その時、先輩の言葉を思い出した。
『好きなんだ。この花』
鼓動が力強く胸を叩いた。そして高まる鼓動に沿うようにさらに私は思い出した。
『例えば、好きな人ができたとか?』
『きっと分かることがあると思うよ』
もう一度、先輩の言葉。
ドキドキと胸は高鳴り続け、掌が汗ばんで行くような感覚の中、いつかの疑問が頭に浮かぶ。
私、先輩のこと、好きなのかな……。
一つの疑問を前に、やがて思い出した二人の言葉が、決心しきれないでいた私の背中を押した。
「うん……、やってやる」
こうして私は先輩の提案通り着物制作を決心したのだった。
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