風祭 今日子 7
サイレントブルー、そんな風な名前だった気がする。空が夜に変わる前に一瞬見せる深い青色。
アパートの前で空を見上げた。見つけた星が子供の頃よりもずっと遠く感じる。
視線を落とせば、空よりもずっと濃く闇に染まった町の輪郭。立ち止まっているとその中に自分も溶けて行ってしまいそうな錯覚を覚える。
一人になった私は十香さんと一緒にいた時が嘘のように元気をなくしていた。
それもそうだろう。十香さんと言う存在が落ち込む私を引っ張り上げていたのだから。むしろ今はその反動でより落ち込んでしまっている気さえする。
大学進学を期に、親の反対を押し切って家を出て借りたアパート。地元のアパートと言うのは親の気持ちも酌んだ妥協案だったのだが、結局様々な面で助けられた。それは今も同じで、自分の未熟さを現在進行形で感じている。
それでもなんとかやってこれたのは夢があったからだ。
良くも悪くも夢は自分の支えだった。いい訳にもなった。
いつか成功する。夢のためだ。
夢が描く未来の自分は、今の自分を真っ当な人間にしてくれていた。
それを私は捨てた。
残ったのは、どうしようもなく、どうしようもない、どうしようもない自分だった。
「どうしよっかな私」
答えは出ない。
視線を自分の足元に落とした時、ふと誰かの気配を感じた。小さな女の子のような気がした。
頭を過る図書館での邂逅。
「龍の女の子? まさかね」
そちらを見やると、アパートのゴミ置き場があった。しかしそこに女の子の姿は見つけられなかった。
「気のせいじゃん」
ゴミ置き場の前まで歩き、その中を見た。漫画雑誌や段ボールと一緒にビニール紐で縛ったノートの束があった。
「あれ、まだある。そっか、回収明日か」
金網の扉を開ければすぐ届く距離にあるそれを、私はきっと冷たい目で見ているのだろう。そうでもなければ、もしも少しでも温度が上がってしまえばもっと辛くなってしまうから。
それから私はなるべく何も考えないようにして自分の部屋に向かった。
部屋に着いてすぐにベッドに身を投げ出した。片付けや着替えをする気力は無かった。そのまま眠ってしまおうかと目を瞑ってみたけれど、いつまで経っても眠りの気配すらやって来ない。頭は妙に冴えていた。
そのまま三十分、いや、もしかしたら一時間くらいは経ったかも知れない。
「あー」
静かだ。
「あー」
自分の声だけが静寂の中に響く。
「あー……ふふっ」
声の振動で震える喉が可笑しくて一人笑った。
ベッドから顔を上げず部屋の中に視線を漂わせる。日焼けで変色した壁が視線を捕らえた。そこにはポスターを貼っていた跡が薄っすらと浮かんでいた。
連想ゲームみたいに思い出した。
「あー、ポスターどーしよー……」
途端部屋のあちこちにあったはずの物の存在を感じてしまう。
ポスター、漫画、資料、画材。そのどれもが今は無い。雑多なままの部屋なのに、自分にとっての肝心な物はぽっかりと抜け落ちてしまった。そんな部屋。
またムラムラと込み上げて来た。怒りとも焦りとも絶望とも思える感情。
「あーもー! あー! なんでだよ! なんで! だ! よ!」
ベッドの上でジタバタしてみても出るのは埃ばかりで、現状を打開するアイデアなんか出て来やしない。
一人になるとこうなるのは分かっていた。だから帰って来たくなかったのだ。
私はピタリと動きを止めた。
これから一生こんな感じなのかな。でも待って、普通に考えてみよう。普通に。ほら、これから時間もあるんだし、仕事も頑張って、店長にも認められて正社員になったりして、給料も安定して、そのうち結婚もしたりして、子供が出来て、一緒にアニメ観たりして。そしたら子供が漫画家になりたいとか言い出したりして。懐かしいなって、私にもそんな時代あったなって。そんな風に思って。そんなの、そんなの幸せじゃん。
「幸せじゃん」
乾燥した秋の空気。少し冷めた、そんな温度の。それを固めたみたいな棘。それが胸に刺さったような感覚。
刺は抜かなければ血は流れない。だけど……。
「嫌だ、嫌だなそんなの……」
浮いたり沈んだり、自分で諦めると決めた時から堂々巡りは止まらない。
今日、そんな渦の中に起こった小さな変化。投げ込まれた小さな浮き輪。そこに私は反射的に縋ろうとした。
「十香さん……」
その時、携帯電話の振動音が部屋に響いた。静かなため良く聞こえたが、くぐもった音だ。携帯はリュックに入れっぱなしだった。
「わ、何? 電話?」
携帯はリュックの中で鳴り続いている。
起き上がり、ベッドを出て、リュックから携帯を取り出した。
「え?」
ディスプレイに表示されていたのは『十香さん』の文字。
私が名前を口にしたのに返事をするように十香さんから電話が来たのだった。
「はい。もしもし十香さん?」
『あ、今日子さん。すみません、お休み中だったでしょうか?』
「い、いえ、大丈夫です。ど、どうしたんですか?」
『その、昨日の今日と言うか、今日の今日で非常に恐縮なんですが、あの、実は助けて欲しいんです』
「ええ?」
十香さんからの電話は予想だにしない彼女からのSOSだった。
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