風祭 今日子 8

「助かりましたー」


 満足気にそう言った十香さんの声は反響して湯気の中に消えて行った。

 私たちは今、並んで湯船に浸かっている。

 どうしてこんなことになったのか。久しぶりの広い湯舟はそんなことどうでも良くなってしまう程気持ちが良くて、私は十香さんになんとなく返事をして、考えるのも放棄して、湯船に深く沈み込んだ。

 広い湯舟、広い洗い場、お客はチラホラ。観光客はほとんど来ない。ここは地元民御用達の銭湯だ。背後の壁にでかでかと描かれた立派な富士山がトレードマークである。


「さすが今日子さん、いいとこ知ってますねえ」

「へへへ地元民っすから」


 しばらく二人無言で湯船に浸かっていた。銭湯自慢の天然温泉が身体中に染み渡る。


「ここにも昇り龍描いてあるんですね」


 体の芯まで温まった頃、十香さんが壁の絵を見て言った。

 私も振り向いて壁画を見た。富士山の上空に、富士山から空へ昇るように龍が描かれていた。


「本当だ。知らなかった」


 絵師の遊び心だろうか。籠根町らしくて良いじゃないか。

 火照った顔でぼんやり富士山を眺めていると、十香さんがこちらを振り向いた。真剣な顔をしていた。


「さて、今日子さん」


 眼鏡をかけていないからか、十香さんはズイッと顔を近づけてきた。


「わ」


 目の前にある十香さんの顔。

 十香さんすっぴんでも綺麗。上気した肌が、纏めて上げた髪が、健康的で艶っぽい。

 しかしそんな風にのぼせていた頭は次の言葉で一気に冷めた。


「お話聞かせていただきましょうか」

「うぐ」


 もう誤魔化すことは出来ない。何故ならここに来る前、私は盛大に墓穴を掘っていたからだ。



 十香さんから電話が来た時だ。あのあと、彼女は電話口で自分の置かれている状況を説明した。


『実は泊まっている宿の機械が壊れてしまって、お風呂に入れなくなってしまったんです。それで今日子さんにどこかいいお風呂を教えていただけないかと思いまして』


「あ、そうなんですね、それは大変ですね。えーと、じゃあ……」


 SOSの内容がそんなに緊急性の高いものではなかったからか少し安心した私。そのせいか、その時やけに鮮明に部屋の情景が目に映った。

 生活感はあるのに、どこか余所余所しい大事な物を無くした空っぽの部屋。その中に一人いる自分、そのイメージが強烈に頭に浮かんだ。


「じゃ、じゃあ、あの、これから会えませんか?」


 そう口走っていた。


 それから最寄りの駅で待ち合わせをして私たちは再会した。

 十香さんの笑顔を見た時、まだ夕方別れてからそう経っていないのに、数年ぶりに親友と再会したかのようなそんな気持ちが込み上げた。


「十香さん……」

「すみません。またご迷惑をおかけしてしまって……って、ええ、ど、どうしたんですか?」


 気が付けば私は恥ずかしい程に泣いていた。



 そして今に至ると言う訳だ。


「なんにもないとは言わせませんよ」


 十香さんが湯船の中迫ってくる。


「はい。そうですよね、すみません」


 真っ直ぐ力強い視線から逃げるように俯いた。


 今まで自分の夢について誰かに相談したことなどほとんどなかった。気恥ずかしくもあり、人に言って良くも悪くも、いや、悪く言われることが怖かったのだ。しかしここまで来てしまったらもう言わない訳にはいかない。私は観念して腹を括った。と言うか十香さんの手前そうするしかなかった。


「あ、あの、私、ま、漫画家になりたかったんです……」


 お湯に浸かっているせいか異様に胸の鼓動を感じる。湯船が揺れている感じさえする。大丈夫だろうか。大丈夫だろうか。十香さんは笑ったりしないだろうか。


「漫画家ですか」

「はい」


 十香さんの顔を窺うように視線を送った。

 十香さんは少しも笑っていなかった。真剣に聞こうとしてくれていた。

 私はもう一度腹を括って、ゆっくり深く息を吸い込んだ。


「だ、大学に在学中にプロとしてデビューするのが目標でした」


 湯船の中、緩やかに波打つ水面に昔の自分が映っている気がした。


「大学は実家から通える所だったんですけど、実家を出て一人暮らしを始めて、希望に燃えてました私」


 引っ越して、部屋を整えて、画材や、漫画を描くための教本や資料なんかも買ったりして。夢の第一歩が始まった気がしてた。あの店でアルバイトを始めたのもこの頃だったっけ。


「あの頃は本当に漫画漫画で、夢中で机に向かってました」


 学校の勉強は必要最小限で、人付き合いもほとんど断って、サークルにも入っていなかった。可能な限りの時間の全てを漫画に充てていた。


「賞に送ったりもして、いいとこまで行ったこともあるんですよ」


 あの時は本当に嬉しかった。


「でも、そこまででした。それ以上なかなか前に進めなくなって、段々周りの人達も就活とか進学とかで忙しくなっていって、色んなプレッシャーもあったりして、私も焦り始めて」


 今思えばそれが良くなかった。焦りからの雑な作業は負の連鎖を産んだ。あんなに楽しかった漫画を描くことが苦しくなっていった。夢中でいたはずなのに、夢の中にいたはずなのに、いつの間にか私は外側から夢を眺めるようにして一人立っていた。


「このままじゃいけないと思って、それで、最後に、大学の最後に、これで駄目なら、漫画家の道を諦めるって決めて」


 それも勢いまかせの覚悟だった。親と進路のことで揉めた時だった。きっかけは些細な口論だった。

 だけど最初は勢い任せのはずだったのに、追い詰められた私の上に自分で吐いた言葉は重く圧し掛かった。


「駄目でした。私」


 結果は出なかった。唯々呆然とした。未来も過去も全部無くした気がした。

 両手でお湯を掬った。お湯は手の間からすぐに零れて無くなってしまった。

 私は顔を上げてなるべく明るく聞こえるように言葉を出した。


「それでこの春から片付けしてたんです」


 笑った形の顔を向けると十香さんも笑った。少し困ったような笑顔だった。


「でもなかなか片付かなくてですね、やっと、昨日終わったんですよ」


 片付けの最後は書き溜めた創作ノートを束ねて縛る作業だった。創作ノートには些細な落書きから漫画のネタとして溜めていたアイデアまで実に様々なものが詰まっていた。私が最後まで手放せなかったものだ。


「これで終わりだーって、そう思って、気が抜けちゃってたんですけど、今日お店で、店長に龍神祭のポスターの絵を描いてくれって頼まれて、絵を描いてたでしょって言われて。終わったつもりでいたのに、思いもよらない所から、そんなこと言われて、なんか一気に思い返しちゃったりして、ぐちゃぐちゃになっちゃったんです」


 我ながらなんとも情けないと思う。決意も覚悟もなにもなってない。


「それから、十香さんと会って、一緒に町を歩いて、図書館に行って」


 図書館でさらに昔の、自分の原点とも言える想いに再会したことは十香さんには言わない。正直、それを思い出したことで、より一層凹んでしまった部分もあるのだが、そんなことを言ったら十香さんを責めてしまっているような気がして申し訳なく思うからだ。十香さんはなにも悪くない。


「そのあと一人になって、部屋に戻ったら、盛大にぶり返してしまったと言うか、なんと言うか。ははは、申し訳ないです」


 そして私は十香さんと再会して泣いてしまった。


「いやあ、情けないですよね、いい大人が」

「そんなことないです」

「ありがとうございます。でもやっぱりもう考えたってしょうがないですし……」

「今日子さん!」


 十香さんは私の肩を掴んだ。そしてそのまま真剣な表情で言った。


「飲みましょう」

「へ?」

「私付き合います! 今夜は飲みましょう!」


 少々のぼせていたせいもあるのだが、深く考えることもなく十香さんの勢いに押される形で首を縦に振っていた。

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