雲川 深雪 2

 放課後の廊下。教室を出てそれぞれの居場所へ向かう生徒たち。そんな流れの最後の方に私たちは居た。


「汚れちゃったね」


 袖のチョークを払う私の横で由美ゆみが微笑んだ。しかめ面をほぐしてくれるような笑顔だった。


「ありがとう」

「ん、いーよ」


 由美はこうしていつも自然に気遣ってくれる。今日だって日直の仕事が終わるのを待っていてくれた。


 本校舎と部室棟を繋ぐ渡り廊下の前、私たちは立ち止まった。


「じゃあ部室行くから」

「うん」

深雪みゆきは帰り?」

「あ、今日は委員会の仕事があって」

「そっか、じゃ頑張ってね」


 そう言って由美は渡り廊下の方へ軽快に歩いていった。差し込む光がその姿を照らしていて、私はしばらく立ち止まったままそんな由美の背中を見ていた。


「凄いなぁ」


 由美とは高校になってから知り合った。中学卒業後、親の地元のこの町に引っ越してきたそうだ。だけど今では私よりも友達は多いし、もしかしたらこの町のことだって詳しいかも知れない。部活でも活躍している。


「はあ」


 溜息を吐いて職員室に向けて歩き出した。


 由美と違い私は、一年の時に入っていた手芸部を辞めてから、鬱々とした日々を過ごしていた。と言っても部活をやっていた日々が素晴らしかったかと言えば、もちろんそんなことはない訳で、むしろだから退部したのだが、だとしたら考えてみたら高校に入ってから大半の日々を鬱々とした気持ちで過ごしていた訳だ。


 今日だってそうだ。

 二年生になってから入った環境委員会。そこで半ば押し付けられるようにして与えられた仕事。そのためにこうして学校に残ることになっている。

 でもまあ、仕事を押し付けられた決め手は部活をやっていないってところだったから自業自得ではあるんだけど。


「失礼します」


 職員室に入り、簡単に記名だけして、入り口横の壁掛けフックから用具倉庫の鍵を借りる。

 入室した際に何人かいた教師が確かめるようにこちらを見た。だけど私はなるべくそちらの方は見ない。うっかり目があって何か頼まれたりするのが嫌だからだ。なのにそんな風に意識している時に限って声をかけられる。


雲川くもかわ


 私のクラスで国語を担当している男性教師だった。


「……はい」


 声をかけられてしまったので仕方なく返事をする。


「委員会の仕事か? 悪いんだが、図書委員にこれを渡しておいてくれないか?」

「え……」


 それは委員会の日誌のようだった。そう言えばこの人は図書委員の担当教師でもあった。


「その鍵、用具倉庫だろ? 図書室のすぐ近くじゃないか」

「え、でも……」

「大丈夫だ。渡すだけでいい。すぐ分かる、図書室に入って正面の受付カウンターに居るから」

「は、はあ」

「じゃあ頼んだぞ」


 また一つ仕事を押し付けられてしまった。



 私は図書室のカウンターの前で立ち尽くした。


「誰も居ない……」


 受付に先生が言っていた図書委員は居なかった。代わりにそこには外出中の札が置かれていた。


「どうしよう……」


 早く日誌を手放してしまいたかった。まだ環境委員の仕事もあるのだ。それだけでも大変なのに。もう日誌をここに置いて行ってしまおうか。でももしそれで日誌が無くなったりしたらきっと私のせいになる。そうなったら嫌だ。

 カウンターの前で困ってどうすることも出来ないでいると後ろから話しかけられた。


「どうしたの? 返却?」


 落ち着いた印象の男性の声。

 学年が一つ上の男の先輩だった。ネクタイの色で分かった。

 急に話しかけられた私はドギマギして、この背の高い先輩の顔をほとんど見ずに俯いてぼそぼそと呟くように声を出した。


「あ、その、返却じゃないんですけど……」


 先輩は私の手にあるものに気が付いたみたいだった。


「日誌? 図書委員?」

「あ、いえ、私は違うんですけど、図書委員に渡すように言われて、でも……」


 図書委員は居ない。


「ああ、外出中か。君は急いでるの?」

「その、自分の委員会の仕事もあって……」

「そっか、じゃあ俺が渡しておくよ」

「え?」

「俺いつもここに来てるから図書委員は顔見知りなんだ」

「でも……」

「大丈夫。ちゃんと渡すから。それに何かあったら俺のせいにしていいよ」

「そんなことは……」


 私は迷った。だけどそもそもが押し付けられたものだ。そのせいもあってあまり責任を感じていなかったのかも知れない。


「あの、じゃあ、お願い、します」


 結局、先輩に託すことにした。



 それから私は用具倉庫から各種道具を揃えて中庭に回った。

 中庭には花壇があって、その世話が環境委員の仕事だった。


 草をむしって、肥料をあげて、水をまく。花壇が崩れていることもあるので、そう言うのも整えて、ついでに周辺の掃除もする。ようするに一般の生徒からすると、ハズレくじみたいな仕事。


 仕事をしていて、今まで意識していなかったからか、その日初めて気が付いた。


「そこ、図書室だったんだ」


 中庭はちょうど図書室の正面にあって、自分の位置から窓越しにその室内が見えた。


「あ……」


 その時私が見たのは、ちょうどさっきの先輩が図書委員と話をしているところだった。


「ちゃんと渡してくれてる……」


 先輩は日誌を手渡したあとこちらを振り向いた。


 私は咄嗟に視線を逸らし花壇の方を向いて、手を止めていた水遣りをわざとらしく再開した。

 花壇にはまだ花が咲いていない。青々とした葉がなんだか迷惑そうに水を受け止めていた。


「……私、お礼言ってない」


 ふと、そう気が付くと、ほんの少しの罪悪感が胸の内に生まれた。


 少ししてもう一度伺うように図書室の中を見ると、窓から見える席に先輩の背中があった。

 さっき振り向いた時に先輩が私の存在に気が付いたのかどうかは分からない。だけど少なくとも今は外を気にする素振りは見えない。


「また、会えるかな……」


 そう思ったその時どうしてか私の胸は、風に遊ばれる青葉のように、僅かにさざめいていた。


 これが私と先輩、大平遼太郎おおひらりょうたろうとの出会いだった。

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