宮下 遥 1

 遠く遠く空へ響かせるような龍のいななきが聞こえた。

 晩夏の空は見上げているとそのまま落ちていってしまいそうなほど晴れている。


はるか


 自分で自分を小さく呼ぶ。

 そこに、かつて私の名前を口にした誰かの存在を微かに感じて切なくなる。けれど私にはそれが誰なのか、どうして切なく感じるのかが分からない。

 風に撫でられ、ざわりと動く木々に、波立つ気持ちが重なる。


 そうだきっと私には失くしてしまったものがある。きっと忘れてしまったことがある。懐かしさにも似ているこの想いは体の中を広がって指先でさえ感じる。

 だけどこの手は空を切るばかりで何も掴んではくれない。自分一人では何一つ思い出すことができない。


 ああ、このまま、行かなければいけないのかな。


 未知なるものを求めて遠くへ行こうとする龍の心と、郷愁の想いを頼りに安らぎを求める私の心が、否応なく反発している。

 時間は確実に迫ってきている。

 私はこの胸の切なさを抱えたまま行けるのだろうか。


「はあ……」


 溜息一つ。それから上げていた視線を降ろすと、少し先にいる女性と目が合った。

 いや、そんな気がしただけだ。

 私は言うなれば情報だけの存在。幽霊みたいなもの。だから私の姿を見ることができる人なんていないし、ましてや本当の意味で目が合うなんてこともない。女性はたまたまこちらを向いていただけなのだろう。


 一度目を伏せてから、再び女性の視線の行方を確認してみる。

 依然私の方を見ていた。


 なんだろうか、神社の建物にでも興味があるのだろうか。

 振り返って豪奢ごうしゃな門を見上げて思う。


 確かにここはなかなか伝統のある神社で建築様式もしっかりとしている。

 そうだ、そうなのだろう。

 基本的にこの神社を訪れるのは観光客が多い。観光で来たのだから興味深げに建物を眺めるのはおかしなことじゃない。

 どうやら女性も観光客らしい。麦わら帽子を被り、荷物の沢山入りそうなキャリーバッグを持っている。参道の石畳でゴツゴツと弾んで少し歩きにくそうだ。


 大変そう、手伝ってあげられたら良かったのに。

 でも私には見ていることしかできない。彼女が私に気が付くこともない。


 しかし、そのはずなのにどうにも女性は私から視線を外さない。

 拝殿へと続く参道には、門の手前に横長い数段の石階段があり、私はその階段の隅に座っている。

 だからなのか、女性は階段に着くころには、目の前の門に対して完全に横を向いていた。

 こうなってしまっては完璧に目が合っているとしか言えない。そんな気がすると言うレベルではない。

 大きく丸い眼鏡の向こう、澄んだ瞳が真っ直ぐ私を見ている。そうとしか思えない。

 私は落ち着かなくなってワンピースのフリルを触った。お気に入りの白いフレアワンピース。

 すると不意に女性が視線を切って前を向いた。

 正直ホッとした。


 やっぱり気のせいだよね……。


 女性はそのまま門を潜って行った。

 私は気になってそのあとも彼女の動向を目で追ってみた。


 彼女はさっきまでとは違い、よそ見をしないで拝殿へ向かい、辿り着くと姿勢を正し軽く頭を下げた。賽銭箱にそっとお賽銭を入れ、手近にあった鈴を鳴らす。それから二礼二拍手一礼。最後にまた軽くお辞儀をして下がる。そして振り向きこちらに向かって歩き始めて、そのまま近付いてきて、どんどん近付いてきて、あろうことか私の隣に腰を下ろした。


 な、ななな、なんなの?!


 久しく感じることのなかった緊張感。他人にパーソナルスペースに踏み込まれる感じ。

 だけどそれでも私は自分がここにいることを、この女性に認知されているとは信じられなかった。

 だってそうだ、もうずっと私は誰にも見つかることなく過ごして来たんだ。それがなんか、こんな、こんな感じで気付かれるなんてことがあるものだろうか。


 私は緊張しつつも引き続き慎重にすぐ隣の女性を観察した。

 彼女は帽子を脱ぐと、ニコニコしながらキャリーバッグを開け始めた。ちなみに多くはないけれど他の参拝客もいる。いい度胸だと言わざる負えない。


 彼女は荷物が詰まってごちゃついたバッグの中身から、これまた中身の詰まったビニール袋を取り出した。


「ふふ」


 嬉しそうに笑いを零す。

 そして膝の上に置いたその袋から、掌にのるほどの大きさの何かを取り出した。

 それには見覚えがあった。

 眠る龍の焼印。龍のたまご。商店街で売っているお土産品だ。

 今までも何度となく見たお饅頭だったけれど、この時なぜか突然そのいつか食べた味を思い出した。


 美味しかったなあ。いつだっただろうか。もうずっと食べていない。


 思わず見惚れていると、女性はそれをこちらに差し出した。まるで私に手渡そうとしているかのように。

 彼女の顔を見てみると微笑んでいて、それはもう私に向けられた笑顔にしか思えなくて、さらにそのあと彼女が口にした言葉は短いけれど確実に私に向けた一言だった。


「どうぞ」

「……私?」


 問い返していた。今まで誰にも聞こえなかった声で。


「はい」


 だけど私の声はなぜか彼女には届いている。


「なんで?」

「おすそ分けです。沢山あるので。美味しいですよ」

「いや、そうじゃ、なくて……」


 少しずれた彼女の受け答えも、もっと重要な事実も、目の前の誘惑に薄れてしまう。思い出してしまった感覚が、味覚を、嗅覚を刺激する。食べ物を欲するこの感じ。空腹なんて言うのも久しぶりに感じた気がする。

 気が付けば私はお饅頭に手を伸ばしていた。

 そしてその手が触れるか触れないかと言う瞬間、一瞬視界が途切れた気がした。しかしそれはほんの瞬きほどの間、そんなことより私は、手の中にある確かな感触に驚き感動していた。


「お饅頭だ……!」


 まだできたてのようでほんのりと温かい。ふかふかと柔らかく、それでいて中身に詰まった餡子あんこの重みを感じる。

 喉が鳴った。自然と手が動き、お饅頭を口へ運ぶ。

 一口噛みつくと、クッションのように沈む生地、しかし抵抗はほとんどなく、破けた生地の下から、餡子の味が染み出す。甘過ぎないのに濃厚なその味が、生地の柔らかな甘みと合わさって口の中に広がる。


「おいしい……」


 口をついて出た言葉にハッとする。


 あれ? 声、変。


 隣を見るとそこには帽子とキャリーバッグがあって、女性は居なかった。さらに反対側を見ても誰も居ない。


 あれ? え?


 声に続いて、自分の体に違和感を覚え掌を見る。見慣れた自分のものより一回り大きい。その手で触れた服はシャツで、お気に入りのワンピースではない。

 しかもいつもの子供の体じゃなくて大人の体。顔も自分のそれと違う。


「何これ?」


 私の体は横に居たはずの女性の体になっていた。

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