大平 遼太郎 5
その名前には聞き覚えがあった。
「じゃあ、あなたがあの絵を……?」
康二にあの絵のデータを渡したと言う女性。
「ええ、その通りです」
「ど、どうして、あ、いや、あなたは……」
霧の中で突然目の前に現れた見知らぬ存在に頭は混乱していた。
「まずは、このような形でお呼び立てしたことをお詫び申し上げます」
彼女は丁寧に頭を下げた。
「事の経緯を順を追って説明させていただきたいのですが、せっかくですので、お祭りを見ながらでも構いませんでしょうか?」
「え、ええ、まあ……」
丁寧で柔らかな物言いなのに彼女にはどこか有無を言わさぬ雰囲気があった。
この場で問いただすこともできたのかも知れないが、混乱しているせいもあり提案通りにすることしかできなかった。
「ありがとうございます。
彼女の口から突然出た名前に再び心臓が縮み呼吸が詰まる。
「本当にあなたは一体……」
先に歩き出した彼女は俺がついてくるのを確かめるように振り返った。
鳥居を潜った少し先、祭りの光を背に参道の真ん中で微笑み立つその姿は怪しく輝き、彼女の後ろに俺の知らない物語を感じさせた。
しとやかな、しかし確かな足取りで人波の中を歩きながら彼女は語った。不思議と背景の喧騒は遠く、幻想的な光の中で彼女の声だけが届く。
彼女が語ったのは、遥との出会い、遥との旅、そして今日までの日と、今ここに遥が居ると言うこと。
彼女の話は、御伽噺のようで、空想小説のようで、肝心なところに根拠のない、大人であれば到底信じられないような荒唐無稽なものにも思えた。けれどこの町で育ったものになら、あの絵をきっかけに康二と
彼女の説明が一通り終わったあと、なんとか絞り出すようにして聞いた。自分でもどういう感情を持ってどんな表情をしているのか分からなかったが、口から出た音は微かに震えていた。
「じゃあ、今あなたの中に遥が居るって言うことですか?」
「はい」
よどみのない素直な返事に反論も何もできなかった。このあとにどう言葉を紡いで何を言えばいいのか分からなかった。この期に及んで渦巻く感情に足を取られ動けなくなっていた。
すると彼女は歩みを止め、こちらを一瞥し、傍にある屋台の方に向き直った。そして屋台に近付き店員に声をかける。
「こんばんは」
「あ、
「ええ、もちろんです。今日はこちらで出張販売と言うことで、
「えへへ、ありがとうございます。あ、ポスター見ましたか?」
「すみません、まだなんです。あとで見てみますね」
「飾ってありましたよ弟さんの。それと、へへへ、実は私のも飾ってありまして」
「え? すごい! 二人共ですか」
「はい、まあ、あとで見てくださいよ」
彼女は店員と顔見知りのようだった。なんの店なのかと思うと、屋台には『龍のたまご』と書いてある。どうやら商店街の店が祭りに出店しているようだった。確かに店の奥で蒸し器を積み上げて運んでいる店長らしき人の姿には見覚えがある気がした。
「お饅頭買って行きますか? あ、でも五十個はちょっとやめてくださいね」
「あはは、その説はすみません。今日は一つだけお願いします」
「はい。ドラ饅一つ、ありがとうございます!」
聞こえた懐かしい響きが心に落ちる。
それから彼女は饅頭を受け取り二言三言店員と挨拶を交わすとこちらに振り向き戻ってきた。そしてそのまま何も言わず俺の正面に立つと、眼鏡を外し袖にしまい、手に持っていた麦わら帽子を目深に被った。
「
瞬間、不思議な感覚に襲われた。姿は変わっていないのに目の前に居る彼女が突然別人になってしまったかのように感じたのだ。しかしどこか知っているその感覚に不意に懐かしさが込み上げる。
俯いている彼女の顔は帽子に隠れていて見えない。着物の柄が目に入る。
彼女が両手を差し出した。その手にはさっき買ったばかりの饅頭。それと、複雑な感情の渦よりもずっと、もっと底の方、あの時の記憶。ただ単純に話がしたくて、気をひきたくて、その顔が見たかっただけだった、初めて会ったあの時の記憶。
「……ドラ饅?」
零れた言葉。
彼女がその言葉をすくって答える。
「うん、ドラゴン饅頭で、ドラ饅」
俺は、そっと、彼女の手からそれを受け取った。
「本当に、遥なのか?」
その問いに彼女は顔を上げ、そうだよ、と
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