風祭 今日子 2

 時間は経ち、その日の就業時間後。


「あーあ最悪だ……」


 川辺の石積みの土手の上、私は一人悪態を吐いた。

 仕事が終わり退店したもののすぐに家に帰る気にはなれず、足の赴くままに歩いていたらこの場所に辿り着いたのだ。

 因みに今日は早上がりなので日はまだ高い。

 私は歩くのを止め適当な場所に腰を下ろした。歩みを止めたからか単に近付いたからか、川の流れの音が大きくなった気がした。

 川の上流に位置するこの場所、流れは比較的早い。流れの中には所々大きな岩があって複雑な動きを生み出している。

 そんな川が奏でる音を聞きながら揺れる水面を見ている。いつもならそれだけで多少なりともリフレッシュ出来るのだが、どうにも今日はそう言う訳にはいかなかった。いつもと変わらない川のはずなのに落ち着かない。

 仕事中に忙しさに釣られて上がった気分が今は地に落ちている。なんなら朝よりも悪いかもしれない。


「はあ」


 短く溜息を吐いてそのまま仰向けに倒れ込む。

 泣きっ面に蜂。なんとなくそんな諺を思い出していた。

 それはついさっきのことだった。

 仕事終わり、店長に呼び止められたのだ。


「風祭さん、ちょっといい?」


 正直身構えた、説教だと思ったからだ。だけど違った。今になって思えば説教の方がよかった。


「今朝はありがとうね。風祭さんがいなかったら捌き切れなかったよ」


 一応仕事の方は上手く行った。五十個の注文も乗り切り、それからも特に大きなミスもなく卒なくこなした。言葉の通り店長もそう思っているようで、機嫌も悪くなかった。


「いえ、そんな」


 一体なんだろうかと思案を巡らせつつ、念のためなるべく波風を立てないように謙遜したりもした。


「実はちょっと頼みたいことがあるんだけどいいかな? 忙しい?」

「あ……」


 忙しいです、すぐにそう言ってしまえばよかったのだが思わず躊躇ってしまった。何故なら私は今日から暇だからだ。それがハッキリしていたからだ。今まで多大な時間を割いていた作業は今日からはもうないからだ。


「……いえ」

「そうか、よかった」


 そう言って笑った店長の口から出た言葉が、さっき思い出した諺で言う蜂の一撃だった。


「風祭さんって絵を描いてたよね? 実はお祭りのポスターを描いて欲しいんだけど」

「え」


 え。驚きを感じたときに発する語。相手の言うことが理解出来なかったり疑問を感じたりして問い返す時に発する語。または、名詞、絵。


 言われた瞬間、私の頭は混乱した。

 え、絵? ポスター? 描く? 私が? なんで? 無償で? 仕事の一環? え?


「駄目か?」


 駄目? 駄目ではないけれど、え、でも、絵? でも、そうじゃなくて、なんで? なんで今日? なんで今日なの? だってもう、だって今日、終わったのに……。

 グルグルと言い訳めいた言葉が頭の中で巡った。だけど口からそれがそのまま出て来ることはなかった。


「あ、いや、駄目と言う訳では……」

「おうそうか、やってくれるか、ありがとう助かるよ」


 煮え切らない返事と店長の早合点。

 そこから先は店長の一方的な説明で、なんだかポスターについて詳細を言っていた気がしたが、私にはなにか透明な幕を通して聞いているような感じで、他人事のように聞こえていた。それからそのままぼんやりしたまま、もちろん改めて断ることも出来ず、ポスターの件を曖昧に引き受けてしまったのだった。

 そして今、こうして川辺に寝そべり、その時のことを思い出して溜息を吐いている。


「どうしよっかな……」


 私は緩慢な動きで体を捩って小脇に置いたリュックからラップに包まれた物を取り出した。焼印押しに失敗した饅頭だ。廃棄処分になる物を店長から貰ったのだった。

 饅頭の表面、中央から少しずれた位置に、上から半分だけの途切れた昇り龍が刻印されている。昇り龍なので一応シークレットだ。

 その昇り龍を見ながら誰にともなく呟いた。


「これじゃあ空は飛べんわな」


 その時だった。遠く小さな悲鳴のような声を聞いた気がした。

 その声が聞こえて来たのは翳した饅頭の向こう側、上空の方だった。

 私は声の元を確かめようと昇り龍から視線をずらした。するとぼやけた視界の中、上空に点のように何かがあった。


「ん?」


 それは見る間にこちらに迫って来ていた。焦点を合わせる間もない。だからそれが何かが判別出来ない。だけど確実に何か物体が落下して来ている。

 状況を理解し、やっと回避行動が出来たのはそれが眼前に迫って顔面に衝突する寸前だった。


「わあ!」


 咄嗟に手に持っていた饅頭を手放し、落ちて来た物体をキャッチした。物体は綺麗に手の中に納まった。硬いゴムボールでもキャッチしたような感触だった。


「あっぶねっ!」


 急激に高鳴った鼓動。全身に汗が噴き出したような感覚。

 私は上体を起こして今キャッチした物を確認した。

 しかしそれを見た瞬間、かえって混乱した。何故なら手の中にあったのが、落ちて来た物体をキャッチするために手放したはずの饅頭だったからだ。だけどすぐに気が付いた。

 違う。さっきまで持ってたのと違う饅頭だこれ。

 今手にしている饅頭はラップに包まれておらず剥き出しだ。龍の印、奇しくもこれも昇り龍、も全身しっかりと刻印されている。しかも手放した方も膝の上にしっかりとある。つまり落下してきたのは同じ饅頭だけれど違う饅頭だった。


「は? え? どういうこと?」


 饅頭だらけで混乱した。しかも状況を確認出来ても疑問符が浮かぶ。

 何故饅頭が空から落ちて来たんだ?

 そんな私の上に声が降って来た。


「すみませーん! 大丈夫ですかー?」


 それはなんとなく聞き覚えのある『すみません』だった。

 声は背後の崖の上から聞こえて来た。

 今いるここは大きく見ると谷川の底だ。川は整備されていて、川岸も開発されているので一見するとそうは見えないのだが。しかしその名残として少々起伏のある土地の構造をしている。川を正面に見た時、背後に高台が残っているのだ。高台には温泉宿やレストラン等があって、そこに続く道が遊歩道のようになっている。恐らくその遊歩道に声の主はいるのだろう。

 見上げてみると予想通り、茂る木々の間、崖上の遊歩道にその姿はあった。


「すぐ取りに行きますー!」


 身を乗り出す女性の姿を見つけた時、彼女はそう言って体を引っ込めた。

 返事をする間もなく、私は只々茫然とするしかなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る