風祭 今日子 3
程なくしてやって来たのは、声と同様、見覚えのある姿と聞き覚えのある音だった。
麦わら帽子と丸眼鏡、結んだ柔らかそうな髪とゴロゴロキャリーバック。
「す、すみませんでした! 本当に」
息を切らし、少々髪も乱れているが、まさしく彼女は朝の饅頭五十個を買って行った女性だった。片手には私が渡した店のビニール袋も提げている。中身は言わずもがな饅頭だろう。朝は数袋に分けて渡したのだが今は一袋しか持っていない。その袋の中身もそんなに入っていないように見える。もしかしてもうほとんど食べたのだろうか?
「大丈夫でしたか? お怪我とかされてませんか?」
彼女は私には全く気が付いていない様子だった。当たり前と言えば当たり前だ。たった一度、しかもカウンター越しに客と店員として会話を交わしただけなのだ。それに格好も違う。店では制服を着て三角巾も着けている。
「全然問題ないです。大丈夫です」
立ち上がって笑って返事をした。
実際怪我をした訳でもなんでもない。驚いた程度だ。もし怪我でもしていたら少し複雑な気持ちになっていたかもしれないが。自分で売った饅頭で怪我をするなんてと。弘法も筆の誤り? 猿も木から落ちる? ちょっと違うか。とにかく怒ってはいなかった。
私は片手を差し出した。手にはさっき落ちてきた饅頭。
「龍のたまごも無事ですよ」
「え?」
そこで彼女は気が付いたようだ。
「あ、和菓子屋さんの……」
「はい、お饅頭好きのお姉さん」
彼女は少し恥ずかしそうにして饅頭を受け取り、その時私のもう片方の手にも同じ物があることに気が付いたようだ。
「あの、もしかして、店員さんもお饅頭食べようとしてました?」
「え、あ……」
正確に言うと食べようとしていた訳ではない。眺めていただけだ。だけどそんな状況を説明するのは面倒臭い。
「あはは、まあ、そうですね」
「ふふふ、可笑しいですね」
彼女の笑顔は、見た目の印象よりもずっと無邪気で、警戒心を忘れさせてしまうような、子供みたいな笑顔だった。
そのせいか自分でも意外なことを口走っていた。
「よかったら一緒に食べます? お饅頭」
言ったあと、一瞬自分でも躊躇いを覚えた。
正直、普段ならそんな風に積極的に人と関わるような発想は出て来なかったと思う。グズグズと思い悩んでしまっているせいか、それとも、目の前の彼女のせいか、どちらにしろ口にしてしまった手前引き下がれない。これもなにかの縁だ。そう思って割り切ることにした。
彼女も私の提案に初めキョトンとした表情を浮かべたがすぐに笑顔で返事をくれた。
「はい。是非」
私たちは川の流れを正面に見ながら並んで座った。
彼女は実に美味しそうに饅頭を食べた。あっという間に一つ食べると、新しい物を袋から取り出し、二つ、三つ。伸ばした足をパタパタ揺らしては笑顔を浮かべながら。
私はそんな彼女の姿を見ながらやっと一つを食べ終えた。
「美味しそうに食べますね」
あと食べるの早いな。
彼女は四つ目を口に迎え入れようとしていたところ、一度口を閉じてはにかむように笑った。
「私、こう言うご当地甘味に目がなくて。見つけたら必ず買って食べてしまうんです。すみません、お恥ずかしい」
「そうなんですね。別に恥ずかしくないですよ。私なんかそのご当地甘味を売ってるんですから」
「えへへ、そうですよね失礼しました。あの、色々食べた中でも龍のたまごはすっごく美味しいです。餡子は甘過ぎなくて、舌触りも最高なこし餡で、皮も厚過ぎず、それでいてふかふかで、大きな龍のたまごがあったら飛び込みたいくらい。この焼印のほんの少しの香ばしさも味のアクセントになっているし、デザインもいいですよね。眠る龍って言う。可愛いし、これが卵なんだって分かりやすいし、どんな夢を見ているんだろうな、なんて考えたりも出来ますし。それにシークレットの昇り龍。ただ目を覚ましただけじゃなくて昇り龍。なんだか前向きな感じがします。それになんと言ってもこのサイズ感。頑張れば一口で食べられてしまうくらいの大き過ぎず小さ過ぎない絶妙な大きさ。もう何個でも食べられます!」
突然の熱弁。
私は堪えきれずに吹き出してしまった。
「あはは、本当に好きなんですね」
「あ、すみません、いきなりいっぱい喋っちゃって。弟にもよく注意されるんです」
彼女は居住まいを正すようにして小さくなった。頬が少し赤くなっている。
「そうなんですか。でも、凄いですよ。そんなにはっきり好きなものを好きって言えるの。いいなって思います」
「そう、ですかね」
「はい」
本当にそう思う。私はいつも躊躇ってしまって自分の好きを貫けないでいる。その結果が今の情けない自分と言う訳だ。しかももう終わってしまった。
思わず手を見る。固くなった指先に今はいつもと違う感触が残っている。最後に縛ったビニール紐が今も掌に食い込んでいるように感じた。
ああ、駄目だ。なにも知らない人の前で落ち込んだ姿は見せられない。
リュックからペットボトルのお茶を出して口に含んだ。そして溜息と一緒にそれを飲み込んだ。
目の前の川は相変わらずキラキラ日の光を反射させて流れている。
「あの、えと、すみません、お名前お伺いしてもいいですか」
彼女が最初よりかは静々と四つ目の饅頭を食べ終えたあとだった。
「あ、ああ、すみません、まだ言ってませんでしたね。
「風祭さん」
「今日子でいいですよ。風祭って言い難いですし」
「じゃあ、今日子さん」
「はい」
「私は
十香さんはそう言ってニッコリ笑った。
「じゃあ遠慮なく。十香さん」
私も釣られて笑った。
「あの、今日子さんは今はお仕事の休憩中なんですか?」
「え、あ、いえ、今日は早上がりなんで、もう仕事終わりです」
「そうですか……」
それから十香さんは少し躊躇いがちに続けた。
「あの、よかったらなんですけど、案内していただけませんか? この町のこと」
「え?」
「あ、いえ、その、もちろん無理にとは言いませんし、嫌じゃなければですけど」
驚いた。単純にそんなことを頼まれるなんて思ってもいなかったからだ。案内すること自体別に嫌でもなければ、普通に出来るとも思う。時間もある。むしろ家に帰りたくなくて、どう時間を潰そうか悩んでいたくらいだ。うーん……。
「いい、ですよ」
まあ、いいか。
考えるのを止めた。正直悩み疲れていたのだ。
「ドラ饅を一緒に食べた仲です。バシッと案内しますよ」
「ドラ饅?」
「あ、すみません。龍のたまごのことです。ドラゴン饅頭で、ドラ饅」
うっかり言い慣れた店での通称が口から出ていた。
「ドラ饅、面白いですね」
「あんまりお客さんの前で言うと店長に注意されるんで言わないようにしてたんですけど出ちゃいました。まあ、とにかく案内の件は任せてください」
「ありがとうございます!」
こうして私は十香さんを案内することになった。
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