大平 遼太郎 2
あの事故のあと暗く沈んだ意識の中で聞こえていた声。大丈夫、大丈夫だよ、と何度も励ますように言っていた。
返事をしたかった。返事をして安心させたかった。けれど声はおろか指先一つ動かすこともできなかった。やがて意識は完全に闇の中に沈んでいって、聞こえる声も遠く小さくなっていった。
「
離れていく大切な気配に向かってやっとその名前を口にした時、俺は病院のベッドの上にいた。
「遥は?」
うわ言のようにそう言った俺に、大丈夫だよと返してくれた声は知らない大人の声だった。
遥に会いたい一心で家を飛び出してきた、とは言えない。
遥を失ってからの、心に積み重なった時間は、差し込む光をまっすぐ届けてくれたわけではない。単純な気持ちではいられなかった。
それでも、絵空事のような奇跡を遠目に、否定と肯定を繰り返しながら、あの絵は俺をこの町に連れてきた。
祭りの会場である
駅前から商店街を抜け住宅街へと町を歩く。
ただそれだけでもあの頃の記憶に踏み込んでしまう。
遥がいなくなって途端に色を失った町。
何もかもがどうでも良くなって無気力になった自分。
変に気を遣われ居心地が悪くなった学校、自然と疎遠になっていった友達。
それでも中学、高校と日々を重ねていけたのは、遥に助けられたと言うおぼろげな記憶と、彼女がまだ見つかっていないと言う事実があったから。
けれど、そんな日々の中で俺は聞いてしまう。
一つは龍の子に関するオカルトめいた噂。
内容は簡単なもので、放課後に遊んでいるといつの間にか一人増えていて、あとで考えると誰もその子のことを知らないとか、皆で話をしていると気が付けば近くにいて、その子に話しかけると恥ずかしそうにして消えてしまうとか、龍の子と町の子が遊ぶ昔からある話だった。
それらの話の龍の子が女の子として語られていたのだ。
小さい頃から知っていた龍の子が男の子だったからか、違和感を覚えた俺は、同時になぜかそこに遥の影を感じてしまった。あの事故が神隠しだと騒がれていたせいもあるのかもしれない。
それと、同じころにもう一つ。
遥の両親が彼女の生存を諦めたと言う噂。
夢の中に遥が出てきて別れを告げたと言う話だった。
それらの噂は時間の残酷さを教えてくれた。
そして俺は町を出て行くことを決めた。
その町にこうして今帰ってきている。
それなのに。
この町にいることが嫌で、この町の時間を否定したくて出て行ったはずなのに、随分帰ってこなかった自分を町はこれっぽっちも否定しない。
歩いていると秋の空気が懐かしさを囁いて、その優しさに心が震えてしまう。
足が止まった。
やはり引き返すべきなのかもしれない。
きっと、行けば終わってしまう。たとえこれが質の悪い悪戯であったとしても。今の自分はそれを物語の終わりだと認めてしまう。そうすれば、あの頃が手の届かない懐かしさの底に沈んでしまったとしても、もう手を伸ばし本当に求めることはなくなってしまうのだろうと思う。
だったらこのまま曖昧な結末のままで胸の内に閉まっておけば俺は遥を忘れないで
いられるんじゃないか……。
街路に並んだ花壇には何も植わってはいない。だけどそこに、揺れる赤い花の幻が見えてしまった。
好きなんだ。この花。
いつかそう呟いたころの自分が自分に重なる。
「
その時、突然声をかけられた。
聞き覚えのある声に顔を上げると、着物姿の女性が立っていた。
すぐにその名前が浮かんだのは高校時代に近い精神状態だったからだろうか。
「
彼女の着物の小さな赤い実がやけに鮮やかに目に映った。
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