いつもと違う香り
■
机の上で山積みになっていた書類が、ようやく半分くらいになった。
イルヴィスは小さく息を吐き、指で眉間を強めに押さえる。
平和なグランリア王国であっても、民の不満が少しも無いわけではない。その小さな不満が募っていけば、いつかは反逆の火種にならないとも限らない。だから、国の状態を細かく知ることは大切なことなのだ。
──という、父である国王の言い分は確かに正しいのだが、ならばそれらが記された書類くらい自分で目を通す努力をして欲しい。
(まあ、また倒れられるよりはマシだが)
仕事を再開しようと手を付けていない方の書類の山に手を伸ばしかけた時、ティーセットを持ったメイドやって来た。国王の若い頃から勤めているベテランの女性で、現在は副メイド長の地位にある。
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
「そこに置いておいてくれ」
イルヴィスは仕事用の机から少し離れたテーブルを指した。いつも通りなので、別段気にもせずティーセットが置かれる。
そしてまた、いつも通り書類整理が一段落した頃、冷めきった紅茶を飲むつもりでいた。しかし、いつも通りでないことがあった。
──紅茶の香りが、いつもと違う。
「…待て」
副メイド長を呼び止めた。振り返った彼女は、イタズラがバレた子どもを思わせる表情を浮かべていた。
「どうなさいましたか?」
「この茶は、お前が選んだものではないな?」
この国の王宮にはお茶係という役職がないため、紅茶を選び、淹れるのは副メイド長の仕事だ。彼女は専門の知識を持っているわけではないので、いつも質は良いが無難な紅茶を淹れている。
だが、今日の紅茶はそんな「無難な紅茶」とは少し違う。
「ミントを混ぜてあるようだ」
鼻にスっと抜けるような爽やかな香り。疲労により鈍って頭が覚醒するような気分になる。
「はい、その通りでございます。……ある方から、殿下がいつもお飲みになっているお茶にブレンドしてはどうかと提案されまして」
口に合わないようならば普通の紅茶も用意していると言う副メイド長を制して、イルヴィスは立ち上がりティーカップを手に取った。
香りだけでなく、味も目覚めるような爽やかさ。いつもの紅茶の味もしっかりとしていて、紅茶とミントはお互い打ち消すことなく上手く調和している。美味だ。
「…お前の言う『ある方』とは、我が婚約者殿のことだな?」
副メイド長は少し驚いた様子で手を口もとにあてた。
「はい。アリシア様には、自分の名は出さないで欲しいと言われたのですが……よくお分かりになりましたね」
「……」
イルヴィスは口元に微笑を浮かべて、不思議がる彼女を下がらせた。それから、入れ替わりに側近を呼んだ。
「アリシアはどのくらいの頻度で城に来ている?」
「記録を見ますと、ほぼ毎日来ているようですね」
「毎日…?城内で見かけたことはないが」
「以前2、3度謁見の申し込みがありました。しかしその頃はちょうど他国の使節が来たりと殿下もお忙しい時だったために、断ったのですが…」
諦めたのか、その後はイルヴィスに会いたいという申し出はないらしい。それでも王宮への出入り自由という特権があるからか、ほぼ毎日訪れてはいるそうだ。
「くく…ははは。あの女らしい…」
つい堪えられずに笑い出す。
「まだ帰っていないようでしたら、呼びますか」
「いや、構わん」
イルヴィスは立ち上がり、まとめていた髪を解いた。
「私から会いにいこう。王宮内で、彼女が毎日入り浸るほどに気に入りそうな場所は想像がつく」
□
(タイムの他には…ローズマリー、レモンバーム……あ、カモミールもいいわね)
温室で、アリシアは鼻歌でも歌い出しそうなくらいに嫌良くハーブを摘み取っていた。
大量につくったドライミントは分けてもらえると言われたので、ミハイルの許可を得て、ミントとブレンドできそうなハーブを集めているのだ。
(ミハイルさんとノア、遅いわね。どこまで散歩しに行っているのかしら)
アリシアは手を止めて汗をぬぐう。
ミハイルは先ほど、まだ庭園に慣れていないノアのため、周辺を案内しに行くと言って出ていったのだが、なかなか戻ってくる気配がない。
(実は二人、すごく仲良くなってるかも。お互いの身の上を話すうちに一気に距離が縮まって恋に発展…なんてことがあったりして)
前世から受け継いだ生粋の少女漫画脳でそんな想像をする。
自分が恋することは今ひとつピンとこないアリシアだが、他人の恋模様を想像するのは大好きだ。
温室の入口辺りに、誰かの気配がした。恐らく二人が戻ってきたのだろう。
「お帰りなさい!庭園の散策はどうだっ…た…」
言いながら振り返り、途中で言葉を失った。だがそれは無理もなかろう。
「イルヴィス…殿下…?」
肩まで伸びた、透き通るように輝く金の髪に、鮮やかな緑の瞳。青い宝石のピアスは前に会った時と同じ物だ。服装は白いシャツに黒のパンツというラフなスタイル。
そんな第一王子にしてアリシアの婚約者であるイルヴィスが、壁にもたれかかり、腕を組んだ状態で微笑を浮かべている。
「久しいな、アリシア」
「は、はい!ご無沙汰しております」
アリシアは丁寧に頭を下げた。そして自分が作業着を着ていることに気が付き、血の気が引く。
「見苦しい格好で申し訳…」
「構わん。気にするな」
「ええと、ミハイルさんにご用でしょうか?きっともうすぐ戻ってくると思うのですが」
「いや…」
イルヴィスは静かにアリシアの方へ歩み寄る。
何故だか分からないが、背中に冷や汗をかいてきた。
「ここは気に入ったか?」
「ええ。管理が行き届いていますし、珍しい植物がたくさんあって興味深いです」
「そうか、それは何よりだ。ところで…」
アリシアはグッと息を飲む。対峙するイルヴィスは笑みを浮かべているのに、目は笑っていない……ような気がする。
「ペパーミントのブレンドティー。あれは貴女の案だそうだな」
「ああ、はい…副メイド長にお願いして淹れてもらいました」
(やっぱりその話題なのね…副メイド長は黙っていてくれるって言ってたはずなんだけど…)
もしも問い詰められたら答えないわけにはいかないだろうし、彼女を責めることはできない。
だが、問い詰められたらのだとしたらそれが意味するのは…
「もしかして…お口に合いませんでしたか?」
こんな不味い茶を淹れたのは何故か。アリシアお嬢様にそうするよう命じられて…。そんな会話が目に浮かぶ。
だが予想に反して、イルヴィスは優しさを帯びた声で言った。
「いいや。いつもの紅茶と一味違って面白かった」
「すみませ…え、面白かった?」
「ああ。しかし驚きだ。今どきの伯爵令嬢は手ずから茶を淹れることができるのだな」
「…じ、自分で淹れたわけでは」
とりあえず否定してみるが、何となくそんな嘘は通用しないような気がする。
案の定イルヴィスは、わざとらしく肩をすくめた。
「そうか。私はてっきり副メイド長に茶の専門知識を持っていることを認められ、代わりに淹れるよう頼まれたのを断れなかったのかと思ったが」
(何でそこまで分かるのかしら)
あの副メイド長がそこまでおしゃべりだとは思えないので、きっと推測なのだろう。だが勘が鋭いというレベルではない。
気がつくと、イルヴィスとの距離がかなり近くなっていた。背はアリシアの方が低いので、自然と見下ろされる形になる。
婚約者としては別に不自然な距離でもないのだろうが、威圧感がすごい。アリシアは思わず後ずさりそうになるのを必死に堪える。
「それで、本当のところはどうなんだ?」
「本当のところ、とおっしゃいますと?」
「だから本当に貴女はあの紅茶を自分で淹れたわけではないのか?」
そんなにこだわる必要のあるところなのだろうか。というか、どうせアリシアが嘘をついていたことは分かっているのだろう。
(ならまあ、嘘をつき通す必要はないかしらね)
今まで無意識にそらしていた目を、まっすぐイルヴィスへ向ける。
ばっちりと合った緑色の瞳の視線は、まるでずっとアリシアのことを見ていたかのようにしっかりと注がれていた。
(本当に綺麗な瞳…前世で読んだ漫画は、ほとんど白黒だったけれど、すっごくもったいなかったのね)
この麗しい婚約者と向かい合うと、ついつい余計なことを考えてしまう。
アリシアは右の手の甲を軽くつねって、余計な思考を振り払った。
「実は、殿下のおっしゃる通り、あのお茶はわたしがこの手で淹れさせていただきました。もし不快な思いをさせていたのなら申し訳ございません」
怒られるかもしれないと思った時は、その前に、事実を認め素早く謝ることが大切。そうすれば相手の怒りも幾分か収まってくれる。それは経験上学んでいる。
昔、勉強をサボって街のカフェへ出かけたのがバレた時も、着替えずに庭いじりをして高いドレスを汚してしまった時も、そうやって乗り切ってきた。
「侍女のような真似をすることが褒められたことでないことも理解しております。ただ、面白半分にやっているわけではなく、きちんと学んだ上での真剣な趣味であることは知っておいていただきたく…」
「待て。私は別に貴女を責めるつもりはないぞ?」
さらに言い分を並べ立てようとしていたため、アリシアはそう言われて言葉を詰まらせた。
お茶が不味かったわけでも、婚約者の使用人のような趣味を咎めたいわけでもない。ならば彼はどうして、わざわざここに足を運んだというのだろう。
「すみません、遅くなりましたアリシア様……おや、イルヴィス王子もおいででしたか」
息が詰まりそうな気分の中、ミハイルの声が聞こえて少し力が抜ける。一通り案内を終えて戻ってきたようだ。
イルヴィスはそんなアリシアと対照的に、どこか残念そうな表情をして振り返った。
「ああ。邪魔しているぞ、ミハイル」
「いえ。お茶でもお持ちしましょうか?」
「いやいい。先ほどアリシアの淹れた茶を副メイド長に持ってきてもらったばかりだからな」
助けを求めてこっそりミハイルの方に視線をやると、ミハイルの後ろでノアが目をキラキラさせながはアリシアとイルヴィスを見ていた。
ノアはミハイルのそでをちょっと引っ張り、何かを耳打ちする。ミハイルはそれにうなずいて、微笑んだ。ノアの瞳に劣らないキラキラ笑顔だ。
「そうですか。では、こちらの隅で作業をしているので、お気になさらないでご歓談ください」
(ちょっ、ミハイルさーん!…ノア、ミハイルさんに何言ったのよ!あー、行かないで二人とも)
アリシアの心の叫びも虚しく、二人は本当に隅の方へ行ってしまった。それでもまあ、二人が同じ空間にいるというだけで、幾分か気分は楽だろうか。
「アリシア」
「はいっ!」
「王宮の出入りを許したのは、貴女と交流する機会を持ちたいという考えからだったのだが」
「あ…」
それを聞いて、アリシアはやっと気がついた。イルヴィスは、婚約者に会うこともせず、この庭園に入り浸っているのに苦言を呈しに来たのか。その場合の言い訳を考えていなかった。
「殿下は、いつもお忙しそうでしたので…」
「以前はそう断ってしまったらしいな。それはこちらもすまなかった。だから…」
イルヴィスは、はらりと垂れた髪を耳にかけて微笑む。今度は目も柔らかな印象になったように思える。
「これから毎日、私のために茶を淹れてもらえないだろうか」
「お茶を…わたしが、ですか?」
全くもって想像していなかった言葉に、アリシアは思わずスカートを強くつかむ。
「ですが…」
「私のために茶を選び、淹れる。ただし、茶は二人分準備し、ティータイムは必ず私と一緒に過ごすという条件で」
なるほど、そう決めてしまえば確実に交流の機会が生まれる。しかも、彼はアリシアの趣味を認めた上で提案してくれているのだ。
だが、こうやって話しているだけで息が詰まるような相手と毎日一緒にティータイムを過ごすことなどできるだろうか。
それでも迷いは一瞬だった。
誰かのことを思ってお茶を選ぶのがどんなに楽しいか、自分が淹れたお茶を美味しいと言ってもらえることがどんなに嬉しいか…アリシアはよく知っているのだから。
「分かりました。是非やらせてください」
堂々とした態度で告げたその姿は、漫画に登場した“アリシア・リアンノーズ”よりもさらに気高く美しい令嬢に見えることに、本人は気づいていない。
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