次
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晴れ渡った空は真っ青で、長い時間見ているには眩しすぎるくらいだ。
過ごしやすかった気候はいつの間にか過去のものとなり、今や七分袖のワンピースでは少し汗ばんでくるくらいになった。
「……さま、お嬢様!」
自室で何をするでもなくぼんやりと外を眺めていたアリシアは、自分を呼ぶ声にゆっくり顔を上げる。
侍女のノアは、手に持っていた分厚い本をアリシアに手渡しながら、不安そうに首を傾げた。
「お嬢様、いったいどうしたのですか?ここ最近、様子がおかしいです」
「……そんなことないわ」
「あります!今だって、この家で一番分厚い百科事典をもってこい、だなんて……いったい何をするおつもりで?」
「今まで見かけたことすらなかった人を、一度認知したとたん頻繁に出くわしてしまう現象の名前を調べたくて」
「は?」
パラパラと辞典をめくる。何も本気で調べものをしたいわけではない。それどころか何をするにも今ひとつ身が入らない。
ヒロインであるニーナと遭遇してしまってからしばらくが経つ。
これまで彼女のことは噂に聞くばかりで見たことはなかったのに、あの日以来ほぼ毎日、何らかの形で顔を合わせている。
廊下を歩けばすれ違い、給湯室へ行けば掃除をしに現れる。ハーブ園へ向かう途中でさえ、植物を見ながらこっそり息抜きをしている姿を目にすることになる。
(ヒロインと悪役令嬢は、どうあがいても関わりを持つ運命なのかしら)
意味もなくページをめくりながら思う。
しょっちゅう顔を合わせる上、タチの悪いことに、ニーナはアリシアに気づくとキラキラと邪気のない笑顔を向けて挨拶をしてくる。そうされては無視をするわけにもいかず、その度少し立ち話をする羽目になるのだ。
そんな日々を通して、アリシアは実在のニーナが漫画に出てくる通りの人物だという印象を受けた。
黒髪は気味悪がられることが多いものの、容姿は人目を引きつける可愛らしさ。天然で鈍感そうな雰囲気に反して知性が高く、知恵と工夫により困難を自力で乗り越えることができる。
常に笑顔を絶やさないながらも、時折見せる辛そうな表情に、周囲の人々は徐々に惹かれていくのだ。
周りから敬遠されがちな悪役令嬢とはまさに正反対ともいえるキャラクターだ。
(別にあの子は悪い子じゃない。それはわかってるけどやっぱり関わりを持つのは不安だわ)
アリシアがニーナへ嫌がらせをした黒幕に仕立てあげられないようにするためには、赤の他人でいることが一番だと思っていた。しかしその手はもう使えそうにない。
度々話しこんでいる姿は、既に多くの人に目撃されているはずである。
「はあ……」
「お嬢様、ため息をつかれては幸せが逃げますよ」
「……」
ため息じゃない深呼吸だ、と返そうかと思ったが、何となく口を開く気になれず黙った。
それがまたノアの心配を助長させてしまったらしく、彼女の眉がぐっと下がった。
(しまった。下手に心配かけたいわけじゃなかったのに)
急いで取り繕ってみても、わざとらしく見えるだろうか。
そんなことを考えて、ふと思う。
そもそも、何故自分はヒロインの存在にここまで怯えなくてはならないのだ。まだ何かが起こったわけでもないのに。
アリシア・リアンノーズほどの人間が、起こると決まったわけでもないことに必要以上に悩み、周囲に心配をかけることなど果たしてあって良いのか。
自問の末出した答えを、はっきりとした声で呟いた。
「良いわけ、ないわよね」
アリシアは、パタンと音を立てて辞典を閉じた。
軽く自分の頬を叩いてから立ち上がる。
「ノア、そろそろ王宮へ行く準備をするわよ。今日は久しぶりにシンプルなミントティーを淹れようと思うの」
「お嬢様……!」
アリシアに微笑みかけられたノアは、一瞬驚いたようにポカンと口を開けたが、その表情はすぐにパッと晴れた。
「はい!今すぐ!いつもの店の新作ドレスが届いたのでお持ちします」
「あら、楽しみ。あの店のデザイナー、センス良いから新作もすぐ流行っちゃうのよね。誰よりも早く着られるのは嬉しいわ」
「確かに毎回素敵なデザインですが、流行るのは恐らくお嬢様が着ているからというのも大きいと思いますよ。宣伝の意味もこめて発売前にお嬢様に送られているのですから」
「あら、わたしが着るだけで宣伝になんてなるのかしら。
あ、ノア。悪いけどこの本戻しておいてもらえる?」
ノアは嬉しそうに辞典を受け取ると、軽い足取りで部屋を出た。
アリシアは、ノアが戻ってくるまでの間に、ベッドの下からノートを取り出した。
この世界が前世で読んだ漫画の世界だと気がついた頃、覚えている限りを書き出したノートだ。
ヒロインについて書き込まれたページを開くが、そもそも漫画の内容自体詳しく覚えているわけではないので、ヒロインについての情報も大したものはない。
アリシアは、そのページをビリっと音をたてて破いた。
漫画のアリシアと、自分は違う。漫画のストーリー通りに進んでしまうのでは、という心配はやめにしよう。
□
「アリシア、顔が明るくなったな」
王宮。既に日課となって長い、婚約者とのティータイム。
カップにミントティーを注いでいると、不意にイルヴィスが言った。
アリシアは、「え?」と手を止め、イルヴィスを見た。
「悩みは解決したのか?」
「……悩んでいるように見えましたか?」
「違うのか?」
「まあ……違いません」
悩んでいたことを認めたアリシアに、イルヴィスは、思い通りだというように笑った。
「それで?悩みはなくなったのか?」
「はい」
アリシアは答えて、爽やかな香りが漂うお茶を差し出した。
スっと鼻を抜けるような香りは初夏に似つかわしいが、そろそろホットではあついだろうか。アイスティー向けのハーブティーも用意しなければ。
そんなことを思いながらイルヴィスの向かいに座ったときだった。
「殿下、失礼いたします」
イルヴィスの側近の一人が部屋に入ってきた。彼はアリシアに会釈してからイルヴィスに近づき、何やら耳打ちした。
何か執務に関することらしく、イルヴィスは一つうなずくと「すぐに行く」と答えてティーカップに手を付けた。
「お仕事ですか?」
「ああ。せっかく淹れてもらったのにすまないな」
「いえ。お茶はいつでも淹れられますからお気になさらないでください」
イルヴィスはミントティーを味わうようにゆっくり飲んだ後立ち上がり、髪を結んだ。
急いでいながらも、アリシアが淹れて渡した分のお茶はきちんと飲み干してくれるのが嬉しい。
「殿下、いつもお疲れ様です」
部屋を出ようとするイルヴィスに、アリシアは後ろから声をかけた。
この国が平和で、笑顔のあふれる場所なのは、間違いなく彼の働きがあってこそだ。そのことは最近ますます実感している。
イルヴィスは振り返り、アリシアに向けて微笑を浮かべた。
「この頃は貴女が淹れるハーブティーのおかげで調子が良い。明日も楽しみにしている」
そう言い残し、部屋から出ていった。
(……!そんな風に思ってくれていたのね)
ハーブティーを淹れるのは趣味の延長線上であるが、それが少しでもイルヴィスのためになっているのなら、こんなに嬉しいことはない。
(なら期待に応えないと。次はどんなハーブティーにしようかしら)
──この時のアリシアは、「次」が当然明日にでも訪れると、信じて疑いもしなかった。
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