救出 後編




 まだ少し薬の効き目が消えきっていないからか、それともアリシアとディアナが逃げ出そうとしていることに怒っているからか、虚ろな目をしている。


 きっと躊躇なく襲いかかってくる。そんな恐怖を感じさせられた。



「っ……」



 アリシアは向こうの船までの距離と、カーラまでの距離をざっと見て測る。

 そして、意を決して船に飛び移った。



 恐らく飛び移ることができない距離ではない。動くのには向いていないヒラヒラのワンピースなのは気がかりだが、運動神経が悪いわけではないし、きっと大丈夫だ。


 アリシアが飛び移ろうとしていることに気がついたイルヴィスが、こちらに手を伸ばしている。アリシアも彼に向かって必死に手を伸ばした。


 足が移った先の船のへりを踏んだ感触があった。あとは彼の手をつかむことができれば。


 ──そう思った瞬間を見計らったかのように、また大きく波が立って、船が動いた。



(あっ──)



 ずるっと足が滑り、伸ばした手はイルヴィスの手に届く直前で空をつかんだ。



(落ちる……)



 全てがスローモーションに見えた。


 海に落ちたらきっと助からない。泳げるわけがないし、この重いワンピースが水を吸ったら浮いていることさえできないだろう。


 前世と違い、せっかく健康な身体で生まれたのに、結局同じ年齢で終わりを迎えてしまうのか。



 色々と覚悟をして、ギュッと目を瞑った。


 ……だが、溺れる息苦しさは、一向に訪れなかった。


 代わりに、伸ばしていた右腕がもげそうなぐらい痛い。



「重……い……細いわりに、重いですよ……アリシアさん……」



 恐る恐る目を開けると、必死の形相でアリシアを引き上げようとするディアナがいた。


 細くて頼りない手が、懸命にアリシアの腕を引っ張っている。



「でかしたディアナ。代わる」


「は……い……」


「アリシア、つかまれ!次こそは絶対に離さない」



 そんなイルヴィスの声がして、今度はもっと強い力で、一気に引き上げられた。


 そうして、どうにか上がることのできた船の上。床があるって素晴らしい。



(し、死ぬかと思った……)



 ぜえぜえと荒く呼吸する。


 今になって震えが止まらなくなる。涙もじわじわと溢れ出てきた。


 そんなアリシアを、イルヴィスが強く抱きしめた。



「良かった……無事で本当に良かった」



 胸の辺りがまたキュッと熱くなる。


 やはり、彼にこうして抱きしめられるとものすごく安心する。


 こんなに安心しているのに、震えは一向に止まらない。不思議に思いよく見ると、アリシアを抱きしめるイルヴィスの腕が震えていた。



「殿下、震えていますよ」


「当たり前だ!私がどれだけ心配したと思っている」



 すっかり落ち着きを取り戻したアリシアがクスリと笑うと、強い口調で責めるように言われた。



「もしあの時ディアナがいなかったら、あのまま海に落ちるところだったんだ」


「本当ですね。走馬灯が見えかけました……あっ」



 アリシアはイルヴィスの体をそっと押し、自分を抱きしめているその腕を解く。


 何故かイルヴィスには少し不服そうな顔をされたが、気にせず周囲を見渡す。



 探していた人物は、何の表情も浮かべず、まっすぐ海をみていた。



「ディアナ王女」



 アリシアは声をかけ、彼女の方へ歩み寄る。

 ディアナはアリシアのことを一瞥して、また海の方を見た。



「ディアナ王女、先ほどは助けてくださってありがとうございました」


「ありがとうって……本気で言っているんですの?」



 深く頭を下げるアリシアに、ディアナは面食らったように言う。



「わたしが貴女を誘拐しようと企てたりしなければ、そもそも命の危険に晒されるなんてこともありませんでしたのよ?」



 責められこそしても、お礼を言われる筋合いはない。彼女はそう言い放つ。


 それはそうだ。もちろんアリシアとしても、そのことを許すつもりはない。


 しかしそれでも──



「それでも、ディアナ王女があそこで手を伸ばしてくれなかったら、わたしは今ここにいなかったかもしれません。貴女はわたしを助けてくれた。それは事実です」


「ですけど……」


「あそこでわたしを見捨てることもできた。わたしを見捨て、貴女の前から消えれば、それで貴女は当初の目的を達成できたことになったのでは?」


「……つい、反射的にですわ。さすがに目の前で溺れられても気分が悪いですし」



 ディアナはごにょごにょと決まり悪そうに言う。



「それにあの、アリシアさんは私を助けようとしてくれたのに、私は見捨てるというのも違うかな、と……」



 アリシアはディアナの横に並び、同じように海を見る。

 つい先ほどまで捕らえられていた船には、カイの連れてきた家来たちが何人か乗り込み、カーラと船の乗組員たちを拘束している。



「そうですわ、ずっと言おうと思っていたのですが、『ディアナ王女』という呼び方はそろそろやめて頂けませんか」



 ディアナが思い出したように、目を合わせないまま言った。



「私が本当の王女ではないと知っているのにそう呼び続けられるのは、あまり愉快ではありません」



 言われてみればそうか。アリシアは少し考えてから言う。



「では、ディアナ」


「よ、呼び捨ては流石におかしくありません?」


「ふふ、殿下とカイ様の呼び方に倣ってみたのですけど、やっぱりダメですか。なら普通にディアナ様、と……」


「ダメとは言っていませんわ!」



 ディアナはようやくこちらを向いて、やや食い気味に遮った。

 かと思うと、すぐにハッと我に返り目をそらした。



「その……そう呼ぶことを許しますわ。ですけど、こちらだけ呼び捨てにされるのは嫌ですので、私もアリシアと呼びます。よろしいですわよね?」


「ええ、もちろんです」



 アリシアがそう微笑むと、ディアナもつられたように笑った。

 ディアナからこんな心からの笑顔が向けられたのは初めてかもしれない。





 その後、船は無事に港へ戻ってきた。


 朝に庭園で気絶させられてから、いったいどれだけ時間が経ったのだろう。日はすっかり傾いて、夕焼けの赤い光が海を染め上げている。


 長時間揺れる船の上にいたからか、地上に上がると何だか違和感がある。



「あ……」



 ちょうど、拘束されたまま連れられていくカーラと、あの船の船員たちの姿が見え、アリシアは小さく声を上げた。

 カーラの表情にはもはや生気がない。無抵抗に連行される様子を見ていると、母親のことやお茶のことを楽しそうに話していた時の彼女が思い出されて、胸の辺りがキュッと痛む。


 ふと視線を横に向けると、ディアナも複雑そうな表情をしてカーラの方を見ていた。


 昔からずっと、ディアナに美味しいお茶を淹れていた彼女。いつも身近にいて、特に信頼できる存在だったのだろう。


 ディアナが恨めしい異母妹であるという事実を偶然知ってしまったが故に、今回の出来事は起こった。もしカーラが国王夫妻の会話を聞くことさえなければ、きっとこれからも、何事もなく二人の微笑ましい関係は続いていたはずだ。



「カーラ!」



 ディアナは数歩カーラに近づき、名前を呼んだ。



「私、カーラが淹れてくれるお茶が、とても好きでしたわ」



 カーラは立ち止まり、ゆっくりディアナの方へ顔を向ける。

 今にも泣き出しそうな目をしているが、無理やりに弱々しい笑顔を浮かべた。


 そして、何かを呟いたかと思うと、深く頭を下げた。

 ここからでは、その声はさすがに聞こえない。


 だが口の動きは、『ありがとうございます』と言っているように見えた。




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