魅惑のハーブ園
□
王宮から自宅へ戻ったアリシアは、自室に入るなりベッドへ倒れ込んだ。
「あああ疲れた〜」
「お疲れ様でした、お嬢様。風呂の準備ができておりますが、どうなさいますか?」
「入るわ。ローズマリーの石鹸を用意してもらえる?」
「かしこまりました」
指示を聞いたメイドが部屋を出たのを確認して、アリシアはベッドの下から一冊のノートを取り出した。
この世界についての記憶を整理するため、昨日から書き始めたものだ。
(王子の印象は、ほぼ漫画の通りね)
漫画のあらすじは昨日一生懸命に思い出したのだが、何せ1回読んだだけのシリーズだ。細かい出来事までは思い出せない。
それに、思い出したところで『アリシア・リアンノーズ』は中盤以降出てこないキャラクター。そこまで役には立たないかもしれない。
(でも、
ノートの白紙のページに『イルヴィス王子』、その隣に『ラベンダー』と書き込んでグルグル囲った。
そんな設定があれば、前世の“彼女”でも親近感が湧いて覚えていそうなものなのだが。
(まあでも、彼だって主人公ではないし、そんな細かい設定まで描かれてないか)
その後、風呂で希望通りローズマリーの石鹸で髪を洗われながら、アリシアは今後のことを考えた。
主人公が現れたところで、もちろん嫌がらせをするつもりも、誰かにさせるつもりもない。まだ具体的な策はないが、黒幕に仕立てあげられないようにも気をつける。
だが、そうやって平穏に一年を過ごすことができれば、それはつまり、第一王子イルヴィスと正式に婚姻関係を結び王子妃──そして恐らくは未来の王妃──となることを意味する。
(…先が思いやられるわ)
考えれば考えるほど気が重くなってくる。
これでも伯爵令嬢なので、優秀とはいえずとも、学園で学んだ王妃として必要な最低限のマナーくらいは頭に入っている。それでも、その学んだことを実践することがあるとは考えたこともなかった。
アリシアにとって今回のことはまさに青天の霹靂だった。
(もし王妃なんかになったら、今までみたいに自由にハーブの世話をしたりできなくなるのかしら)
この国でガーデニングは貴族の趣味として多少定着してはいるが、普通は自ら土に触れたりはしない。ほとんどは使用人に指示を出すだけで、アリシアのように自ら泥だらけになるのはかなりの少数派だ。
ましてや王族ともなれば、その少数派すら受け入れてもらえないだろう。
(でも、明日からいつでもあの広い庭に行けるのね)
沈みこんでいたアリシアは、王宮への自由な出入りが許されたことを思い出し、少しだけ心が踊る。自分でも実に単純だとは思ったが。
広くて、季節ごとにたくさんの花が咲き誇る王宮の庭園。きっとハーブや薬草も育てられているに違いない。
「ねえ、ノア」
アリシアは髪を洗ってくれている、赤茶色の髪の歳若いメイドに告げる。
「わたし、明日さっそく王宮へ行ってみようと思うの」
「まあ。お嬢様が…お珍しい」
「え?」
「イルヴィス王子にお会いしに行くのでしょう?
今まで殿方に少しも興味を示さなかったお嬢様が自ら会いに行こうなんて、本当に素敵な人なのでしょうねぇ」
ノアはうっとりした表情で言う。彼女はどうやら、アリシアが王宮へ行きたがるのはイルヴィスに会いたいがためだと勘違いしているようだった。
否定しようかと思ったが、それはそれで王子に不敬だと考え直し、曖昧に笑って誤魔化す。
「お嬢様の未来の夫となるお人…冷酷だなどという噂はありますが、誰とでも良い関係を築けるお嬢様なら、必ずうまくやっていけます」
「ノアったら、買いかぶりすぎよ」
「いいえ。わたくしも、お嬢様のその性格に救われた一人でございますから」
ノアは何かを思い出すように、小さく呟いた。
□
「わあっ…!」
昨日と同じように馬車に揺られ、城へ到着したアリシアは、庭に咲き誇る花々を見て歓声を上げた。
初夏の今は、色や大きさが様々なバラに、小さくて可愛らしいポピー。存在感のあるダリアや甘い香りの百合もある。
「本当、見事ですねぇ」
付き添いとして共に登城したノアも真剣な顔でうなずく。
「リアンノーズ邸の庭も、お嬢様の努力のかいあって、とても美しいですが…」
「やっぱり桁違いよね。すごいわ」
こんなにたくさんの花があるのに、どの花も霞まずどれもが映えている。さすがプロの為せる技である。
リアンノーズ家では庭師を雇っていない。昔はいたのだが、アリシアが自分の手で庭をいじり回してしまい、仕事ができなくなって皆辞めてしまったのだ。
「でも本当に広いわね…あ、あっちにマーガレットが…行ってみましょノア?……あれ、ノア?」
迷路のような広大な庭。興味のそそられるままに歩き回っていたら、いつの間にか傍にひかえていたはずのノアがいなくなっていた。
周囲を見渡してみるが、どこから来たのかよく分からない。
(これはまずい…誰かいないかしら)
庭園が綺麗すぎてテンションが上がったあげく、迷子になった伯爵令嬢17歳はちょっと格好悪い。それにノアも心配しているだろう。
来た道を戻ろうと思ったが、そもそも来た道が分からない。どうするのが正解かと悩んでいると、少し遠くの方にガラス張りの建物のようなものがあるのに気がついた。
(あれは…温室?)
アリシアはつい今まで悩んでいたのを忘れ、温室らしき建物の方へと歩く。
その建物のある一画は、他と少し雰囲気が異なっていた。
華やかな見た目の花が少なく、その代わりに、地味だが芳しい香りがする、実用的なハーブや薬草がたくさん茂っている。
(なるほど、ここの一画はハーブ園なのね)
もしこの瞬間のアリシアを見ていた人物がいれば、その人物はきっと「獲物を見つけた狼のような目をしていた」と語るだろう。
口もとにニンマリと弧を描いたアリシアは、今までにも増してじっくりと周りを観察する。温室の扉も押してみるとあっさりと開いたので、迷いなく足を踏み入れた。
「レモングラスにタイム、カモミールもある!」
多種のハーブが、きっちりと整理されて植えられている。その中にハーブティーに使えるものがいくつもあり、見つけては心が踊る。
紫の花を咲かせた、爽やかな香りのヒソップにそっと手を伸ばした時、後ろで扉が開く音がした。
振り返ると、不審そうに眉を寄せる青年の姿があった。
「…どちら様でしょうか」
青年はそう尋ねながら、かけている細い銀縁のメガネを指でクイっと押し上げる。なかなか神経質そうな雰囲気だ。
アリシアは慌てて立ち上がり、スカートの裾を軽く払って姿勢を正す。
「リアンノーズ伯爵家の三女、アリシア・リアンノーズと申します」
「ああ…イルヴィス王子の」
アリシアが名乗ったのを聞いて、青年は少し表情を和らげた。
「失礼しました。僕はこの庭の管理をしている、ミハイル・テニエです。以後お見知りおきを」
ミハイルは恭しく頭を下げる。
(ミハイル…)
アリシアはその名前を聞いて、心がざわついた。ミハイル・テニエは、あの漫画の登場人物だ。
主人公と同じで、庶民だが高い能力を買われて王宮の庭師として働く青年。頭が良く冷静で、主人公や時には王子たちにも的確なアドバイスを与える存在。
(主人公とは良き友人関係って感じだったかしら…となると、あまり彼と接点を持つと、主人公とのエンカウント率が上がりそうね)
それならばミハイルとはそこまで親しくならないのが正解かもしれない。
そうは思ったが、彼がこの美しい庭園を管理している一人なのだと思うと、好奇心が抑えられなかった。
「あの、ミハイル様」
「呼び捨てで構いません。貴女の方がずっと身分が上です、アリシア様」
「えっと…ではミハイルさんで。この温室のハーブもミハイルさんが管理されているんですか?」
「ええ。お気に召しましたか?」
「はいっ!すごく素敵で、管理も行き届いていて…奥も見ていいですか?」
「どうぞご自由に」
淡々とした口調で話す人だ。イルヴィスに劣らず冷たい感じがする。
「お茶を淹れましょうか」
「いえ、お構いなく」
「先ほど摘んだばかりのレモングラスで、フレッシュハーブティーを淹れますよ」
「本当ですか!?」
いや、やっぱり良い人なのかもしれない。アリシアはレモングラスのフレッシュハーブティーに釣られて、あっさりミハイルへの印象を変える。
フレッシュハーブティーというのは、乾燥させたハーブを使うハーブティーとは異なり、摘んだばかりのハーブをそのまま使うもののことである。ハーブを生のまま保つのは難しいため、フレッシュハーブティーが飲めるのは育てている人の特権だ。
アリシアはガラスのポットを準備するミハイルを手伝おうとすると、やんわりと止められた。
「アリシア様は温室内をご見学なさっていても構いません。ハーブティーは淹れておきます」
「いいえ、ハーブティーやお茶は淹れる時間を含めて楽しまなくてはもったいないです。あ…迷惑ですか?」
「…いや。貴女がそうおっしゃるならご自由に」
ミハイルは淡々としたトーンで答える。正直、アリシアへの関心は薄いのだろう。
アリシアは採れたてだというレモングラスの葉を洗い、数本の葉を細かくちぎって、温められたガラスのティーポットに入れる。ポットに湯を注ぐと、ふわりと湯気が立った。
レモングラス。見た目はただの巨大な草のようだが、その名の通り、爽やかなレモンの香りがする。料理にも使えるし、虫除けにもなる、とても優秀なハーブだ。
「よし、これで数分蒸らして、と。…ミハイルさん?」
ポットに蓋をし、一通りの作業を終わらせて前を向くと、ミハイルがじっとアリシアのことを見ていた。
目が合うと、ハッとしたように口を開く。
「いえ…貴族のご令嬢が自らの手で茶を淹れることができるのに驚いて」
「ああ…まあ、わたしの場合はそれが趣味なので」
そう言われるのには慣れている。普通はなかなか貴族の令嬢がこんな使用人のような真似はしない。
嫌味っぽく言われることもあるが、ミハイルは純粋に驚いているという感じだった。
「趣味、ですか。茶を淹れるのが」
「ええと、厳密には、ハーブや薬草を扱うのが好きですね。まあ確かに、ハーブティーはブレンドを考えたりするのも楽しいし、一番の趣味かも」
「それでこの温室を気に入ってらっしゃるのですね」
「はい。あ、でも王宮の庭はどこも素敵です」
アリシアは答えながらも、恍惚とした表情でガラスのポットを眺める。じわりじわりとレモングラスの成分が抽出されていく様を見ていると、どこか穏やかな気分になる。
「そろそろ良いかしら」
3分ほどして、アリシアは2つのティーカップにポットの中身を分け入れ、一方をミハイルに渡した。
一口飲めば、特有の爽やかな風味が口に広がる。温かいものも良いが、暑い季節には冷やして飲むとまた美味しい。
「美味い…」
「はい。ミハイルさんの育てるハーブはとても質が良いですね。うちのよりも美味しいです」
アリシアはゆったりとハーブティーを堪能した後、また来ますと言って温室を後にした。
……その後、ノアの存在を完全に忘れていたアリシアが、彼女にこっぴどく叱られたのは言うまでもない。
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