熱 後編



 ディアナが廊下の向こうへ走り去って行くのを確認して、イルヴィスは深く息をついてしゃがみこんだ。



「……」



 幼い頃から妹のように思っていたディアナ。彼女が自分にそんな感情を持っていることに、少しも気づいていなかった。

 まさか紅茶に媚薬を盛るなどという暴挙に出るほど追い詰められていたとは。



「いっ……」



 突然、頭に鈍い痛みが走った。


 相変わらず熱くて堪らないが、先ほどまで感じていた身体の奥底が疼くような感じはなくなり、また違った種類の熱であるような気がする。

 意識は朦朧とし、熱いのに同時に寒気もする。

 病に罹って熱を出した時のような感覚だ。


 部屋に戻って横にならねばと思うのに、立ち上がれない。力が上手く入らない。


 ──コツコツと、誰かがこちらへ歩いてくる足音が聞こえる。

 聞くともなしに聞いていたその足音が、にわかに速まった。やがてその足音が止まると、代わりに焦ったような声がした。



「殿下!?どうなさったのですか?」


「アリ……シア……?」



 聞き間違うはずのない婚約者の声。


 どうにか顔を上げると、不安そうな表情をしたアリシアが至近距離にいた。


 イルヴィスは息を切らしながら、うわ言のようにアリシアの名をもう一度呟き、彼女に寄りかかった。



「で、殿下……って、あつ!すごい熱じゃないですか!!」



 アリシアは悲鳴のような声を上げる。



「誰か!誰かいませんか!?殿下、しっかりしてください!誰か!……」



 彼女の慌てて周囲に助けを求める声が、だんだん遠くなっていくような気がした。





 久しぶりに悪夢にうなされたような気がする。


 部屋に射し込む朝日で目を覚ますと、背中が汗でぐっしょりと濡れていた。


 濡れたシャツは気持ち悪いが、頭はスッキリとして体調は良い。



(そういえば妙な物を飲まされて……一晩眠って回復したのか)



 イルヴィスは昨夜のことを思い出して、深く息を吐く。


 そして、もう一眠りしようと寝返りをうった時だった。


 視界にターコイズブルーの色が飛び込んでくる。はっとして見るとそれはアリシアの髪で、彼女はベッドに突っ伏して小さな寝息を立てていた。


 さすがのイルヴィスもこの状況には動揺し、一気に目が覚めた。



 ゆっくり身体を起こすと、揺れを感じたのか、アリシアもがばっと顔を上げる。



「アリシア……?」



 少しずつ昨夜の記憶が蘇ってきた。


 頭痛と寒気で意識が朦朧としている時に、そういえば彼女の声を聞いた気がする。


 彼女は数秒の間、ぼんやりとした目でまっすぐ前を見ていたが、やがてベッドの上で起き上がったイルヴィスに気づき、何かを思い出したように立ち上がった。

 そしてその白い手でイルヴィスの額に触れ、反対の手を自分の額に当てた。


 やがて彼女は安堵したように息をついた。



「良かった……。熱、下がりましたね」


「熱?」


「覚えていらっしゃいませんか?昨夜、部屋の前で倒れそうになっていたんですよ」



 覚えている。


 だがあまりに情けない気がして、「そうだったか」と適当に流しておいた。


 それから、少しイタズラ心が芽生えて、額に当てられているアリシアの手をそっと取り、その手を額から頬へ移動させた。


 驚いたように手を引っ込めようとするのを許さず、イルヴィスは彼女の手を頬に当てたままそっと微笑んだ。



「貴女の手は少し冷たくて気持ち良いな」



 そう言って、アリシアの困惑した表情が見られるだろうかと目をやる。が──



(……ん?)



 彼女は少し予想と違う表情をしていた。


 アリシアは顔を耳まで真っ赤に染め、視線が合うと慌てたように逸らした。


 イルヴィスは思わず手の力を緩める。アリシアはその瞬間を逃さずさっと手を引っ込めると、目を合わせないまま少し上ずった声で言った。



「わ、わたし殿下がお目覚めになったことを知らせに行ってきます」



 引き止める間もなく、彼女は早足で部屋を出て行ってしまった。


 そしてアリシアと入れ替わるように、ドアがノックされ従者が入ってきた。



「おはようございます殿下。見たところ顔色は良さそうですが、気分はいかがですか?」


「気分……」



 イルヴィスは緩む口元を押さえて言う。



「つい先程、とても良い気分になった」


「はい?」


「こちらの話だ、気にするな」



 深く息を吐き出して、それから本人に聞けなかったことを問う。



「アリシアは一晩中ここにいたのか?」


「はい。熱冷ましの濡れタオルを替えたり、顔や腕の汗を拭いたりと甲斐甲斐しく看病なさっていて……起きていなくて残念でしたね」



 余計なお世話だ。


 終始ニコリともしない従者をひと睨みすると、彼はわざとらしく咳払いをして言い直した。



「お休み頂くようには言ったんですが、気になって眠れないからとずっとこの部屋におられましたよ」


「そうか」


「あと、アリシア嬢が看病してくださっていたお陰で、こちらは殿下が飲まされた毒の正体を突き止めることができました」


「毒?」



 従者の言葉に、イルヴィスは眉をひそめる。

 彼はうなずいて、手に持っていた本を開いて見せた。



「そこに置いてあった紅茶、昨晩ディアナ王女が持って来られたものですよね。ですが彼女自身の姿がありませんでしたし、怪しいと思って調べさせてもらいました」



 わずかに残った香りや、この城に勤める薬師から話を聞き、紅茶に混ぜられたものが何なのかわかりました。従者はそう言いながら開いた本の一部を指さした。



「この国の、王都よりさらに南部の地域が原産の植物ですね。これの葉を乾燥させたものだろうと。保管していた瓶の中からかなり量が減っていると、薬師も言っていましたし」


「毒なのか?……確かディアナは媚薬だと言っていたが」


「確かに媚薬のような効果もあります。ただ免疫のない人間が飲むと、昨夜の殿下のように、頭痛や高熱、寒気といった強めの副作用が出るんです。……それよりまさかと思いますが、媚薬と聞いた上で飲んだわけではありませんよね?」


「当たり前だ。普通の紅茶だと思って飲まされたんだ」



 従者を再び睨みつけると、今回は素直に「申し訳ありません」と謝罪された。



「はあ……しかし酷い目に遭った」


「ええ。ですが、この植物は薬師が多く所持していたことからもわかるよう、それこそ媚薬や他の薬の原料にもなるものです。もちろんその際煮詰めたり他のものと調合することで毒素は抜かれますが、その毒で人が死んだという例も聞きません」



 要するに、殺されかけたわけでもないのだから、騒ぎにするべきではないと言いたいのだろう。イルヴィスもそれには同意見であるし、元よりそのつもりだ。



「まだ体調も万全ではないでしょうし、このまましばらくお休みになられてはいかがですか?あと水分はしっかり取ってください」


「そうしよう、お前にも苦労掛けたな。夜通し調べてくれていたのだろう?お前こそゆっくり休め」



 深く頭を下げて去ろうとしていた従者に、イルヴィスは一つ聞きそびれていたと呼び止める。



「そういえば、アリシアはどうして私の部屋の近くまで来ていたんだ?何か用があったのか聞いているか?」


「はい、少し聞いていますよ。ですが……」



 今までほとんど表情を変えなかった従者は振り返り、にんまりと意味ありげに口角を上げた。



「その用事は是非、本人の口から聞いて差し上げてください」




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