熱 前編
■
ディアナは、昔から欲した大抵の物は手に入れることができた。
綺麗なドレスに、大きな宝石があしらわれたネックレス。
音楽が聞きたいと言えば、国で一番の楽団が城へ呼ばれ、いつものお菓子に飽きたと言えば、次のティータイムには異国の珍しいお菓子が並んだ。
それらは全て、自分がこの国の王女であるからだ。ディアナは昔からそれを理解し、その上であまり反感を買わない程度にわがままを言ってきた。
家族からは愛され、地位のお陰で誰からもチヤホヤされる。きっと、これ以上ないほどに満たされているのだろうと思う。
だが、そんなディアナにも叶えられないことがあった。
──隣国の第一王子の妃になりたい。
国同士の交流が盛んなため、昔からちょくちょく訪問してきたイルヴィス。初めて会った時のことはさすがに幼すぎて覚えていないが、物心ついた時から、ディアナは彼のことが好きだった。
肩の辺りで切りそろえられた金髪に、宝石のような緑の瞳。澄ました表情は少し怖そうな感じがするのだが、ディアナたちと話す時は幾分か和らぐ。ディアナは彼の全てが大好きで、微笑みかけられた時にはドキドキして仕方なかった。
ディアナが彼を恋慕っていることは、この城の人間なら誰もが知っている。
いつかきっとイルヴィスの妃になれる。ディアナを含め、皆きっとそう信じていた。
──だが、国王である父に、その希望は砕かれた。
父は、ディアナが他国へ嫁ぐことを許さなかった。自身が懇意にしている貴族の家へ嫁がせようとしていた。
父に反対されたことはショックだったが、これは譲れなかった。
何度も何度も、嫁ぐのはイルヴィスの元が良いと訴え続けた。
相変わらず答えはノーだったが、ほんの少しずつ父の気持ちを変えられているような実感はあった。
……そんな中で飛び込んできたのが、イルヴィスが自分の国の貴族の娘と婚約したという噂話だった。
その話を聞き、どうやら事実であるらしいと知った時、ディアナは鈍器で頭を殴られたぐらいの衝撃を受け、しばらく何も考えられず自室にこもった。
顔も知らないイルヴィスの婚約者を、結婚を認めようとしなかった父を、ディアナは恨んだ。
彼のことをどうしても諦めたくない。絶対に。
泣きながらもその決心を固くしたディアナにとって、今回久しぶりにイルヴィスこの城を訪ねてきたことは、またとないチャンスだった。
「ディアナ……この、紅茶に、何を……混ぜた……?」
苦しそうに息をしながら、イルヴィスは疑いの目をこちらへ向ける。
すぐさま疑われるとは思わなかったが、ディアナは落ち着いて立ち上がり、ゆっくり彼に近づく。
「媚薬です」
「は……」
「紅茶に混ぜたもの。媚薬です」
いつもの紅茶に混ぜれば味でバレてしまう。だからわざわざ、スパイスの味が強い紅茶を用意させた。
どのような味であろうと、紅茶は頼めば簡単に用意してもらえるが、薬の方はなかなか苦労した。
薬師に「媚薬をくれ」など言えるわけがないのだから、自力で調達するしかない。
そこでまず、王宮図書室から本を持ち出して調べ物をするところなら始まった。
いくつか媚薬の成分が入った薬草に目星を付けて、薬師のいない間を見計らって王宮内にある研究室へ忍び込む。幸い、乾燥させた薬草の入った瓶は丁寧にラベリングされていて、目当ての物はすぐに見つけることができた。
どのくらいの量で効き目があるのかがわからず、少し多めに拝借したが、今のところバレた様子はない。
盗み出したものを手元に置いておくことの不安もあり、今晩行動に移すと決めたのだ。
「ずっと考えていたんです。どうやったらイル様が私のものになるのかなって」
ゆっくりゆっくり彼に近づき、そっと手を伸ばす。
汗でしめり、色味のさした頬に触れると、イルヴィスは荒い息をしながらディアナを睨みつけてくる。
「簡単なことですよね。既成事実をつくってしまえば良いんです」
「……何のつもり、だ」
「既成事実があれば、私があなたの妻になることを、お父様もきっと反対したりしない。……まあ、ものすごく怒られるとは思いますけれど。イル様だって、そこら辺の身分の低い女ならいざ知らず、友好国の王女である私相手に関係を持ったならば、蔑ろにはできない。そうですよね?」
ディアナは薄いドレスから肌をのぞかせ、イルヴィスの座るベッドの上へのぼる。ベッドをぎしりと軋ませながら、微笑を浮かべて彼の耳元で囁くように言う。
「イル様、私を抱いてください」
そっと寄りかかり、彼の腕へぎゅっと抱きつく。
ずっとこんな風に触れたかった。妹のようにではなく、恋人のように。
「きゃっ」
唐突に手首をイルヴィスに掴まれる。
そして、そのままベッドの上に押し倒された。
その気になってくれたのか。
薬の効果といえど、嬉しい。心臓をドクドク高鳴らせながら、ディアナは次を期待してイルヴィスを見上げた。
しかし──
「えっ……わっ」
掴まれた手首は強い力で引き上げられ、ディアナは強制的にベッドから追い出される形で、冷たい床の上に立たされた。
「イル……様……?」
「出て行け」
「え……嫌ですっ。私……!」
「いいから出て行け。不快だ」
今まで聞いた事のないような荒々しい語気。
相変わらず苦しそうな呼吸をしているその口元を見ると、唇からじんわりと赤い血がにじみ出ている。唇を強く噛んだようだ。
自ら痛みを与えることで、媚薬の作用から意識を逸らしたらしい。
「そんなっ、お願い……」
「私が愛しているのはアリシアだけだ。あなたのことは、妹のようだと今まで可愛がってきたが……間違いだった、ようだな」
「ですけどっ!私はずっと……」
その言葉が続くなかった。
血で唇を紅く染め、ほの暗い光に当たるイルヴィスは、いつも以上に色香が増し、目が離せなくなるほどに美しい。
だが一方で、ディアナを見つめる緑色のその目はとても恐ろしかった。
本気で怒っている。それはすぐにわかった。
逃げたくない。薬はきちんと効いているのだ。ここで逃げなければきっと……。
そう思うのに、ガクガクと足が震えてくる。
「私は……イル様の妃に……」
声がかすれていて、ディアナは自分が泣いていることに気がついた。
イルヴィスはそんなディアナの手を引いて、部屋の扉の方へと進む。
悔しい、悲しい、怖い。
色々な感情がグルグルうずまいて、いつの間にか抵抗することを忘れていた。
「今のことは……なかったことにしてやる、から……早く自分の部屋へ戻れ、ディアナ」
部屋から出たとき、先ほどよりいくらか優しい声色で言われた。
それでまた、どっと涙があふれてくる。もう彼の顔が見られない。
「っ……」
ディアナは一目散に走り出した。
何で?何で?私の何がダメなの?
『私が愛しているのはアリシアだけだ』
嘘でしょう。婚約者として都合の良さそうな女を適当に見繕っただけじゃないの?
いきなり現れた女に、ずっとイルヴィスのことを想い続けた自分が負けた?
そんなことがあって良いはずがない。絶対に認めたくない。
『あなたのことは、妹のようだと今まで可愛がってきたが……』
彼にとって、自分が妹のような存在に過ぎないことぐらい、知っている。知っていたけれど……。
「ああああああ‼」
自室に戻ったディアナは、枕に顔をうずめて、思い切り叫んだ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
(どうしてこんなことになったのよ)
そんなはずじゃなかった。
彼に婚約者ができる前に、さっさと結婚を申し込めば良かったのだ。王女であり昔から馴染みのあるディアナなら、断られなかったに決まっている。
父が認めてくれなかったから……。
(いえ、それよりも)
アリシア・リアンノーズというあの令嬢。
あの女さえいなければ。
「そうよ。あの女が悪いんだわ」
ディアナは枕から顔を上げ、ぎゅっと唇を結ぶ。
『私、アリシアさんとは是非お友達になれたらなと思っておりますのよ』
この前夕食の席で、ディアナは穏やかにそう言った。……イルヴィスには勘づかれていたようだったが、本心のはずがない。
彼女がイルヴィスの婚約者であると知った瞬間から、憎くて憎くてたまらなかった。
許さない。絶対に。
──コンコンと、部屋の戸が叩かれる音がした。
「誰?」
鼻をすすりながら、ディアナは投げやりな声を上げる。答えたのは、馴染みの使用人だった。
ディアナが泣きながら部屋へ走っていくのを見て、様子を見に来たと言うのだ。
その使用人は、ディアナの顔を見て少し表情を固くし、それからあることを伝えた。
「そう。アリシアさんが戻ってきたの」
アリシアがしばらくこの国にいる知り合いの所へ行っていて、今晩戻ってくるという話は兄のカイから聞いていた。
彼女の名前を聞くだけで、カッと頭に血が上るような感覚がする。
(……そうですわ)
血の上ったディアナの頭に、とある計画が浮かんだ。
とてつもなく良い案のように思えるが、どうだろう。
ディアナは無意識に、今しがた考えついた計画を口にした。
「……ということなのですけど、あなたも、協力してくださいます?」
前にいる使用人の目をじっと見つめる。
その使用人は、しばらく思案するように黙り込んでいたが、やがてしっかりと頷いてディアナの目を見返してきた。
ディアナはその反応に満足して、薄く笑みを浮かべる。
(アリシアさん。私からイル様を取り上げたこと、絶対に……絶対に後悔させて差し上げるわ)
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