スパイス


 部屋のバルコニーから空を見上げれば、そこには半分ほど欠けた月が輝いていた。

 日中は自国に比べてかなり暑いように思われるこの国も、夜になれば気温が下がり風が心地よい。


 こうもゆっくりとした時間を過ごすのはいつぶりだろうか。自分がいない間に公務が滞っていなければ良いが。


 少し不安を感じかけたところで、イルヴィスは考えるのをやめた。


 国に帰ればまた忙しい日々が始まるのだから、今くらい何も考えずゆっくり過ごしたってバチは当たらない。



(そういえばアリシアは今晩戻ってくるということだったが……もう戻ってきたのだろうか)



 数日この城を離れ姉に会いに行っている婚約者のことを思い、わずかに笑みを浮かべる。こちらに来てから思うように彼女と過ごせず少々不満だった。


 だが恐らくそう思っているのは自分だけなのだろう。


 ここへ来るまでの移動時間でさえ、あそこまで楽しそうにしていた彼女のことだ。きっとグランリアにはない珍しいものでも見つけては目一杯楽しんでいることだろう。



「殿下」



 しばらく何をするでもなく夜空を見ていると、部屋の戸をノックする音と従者の声が聞こえた。



「どうした」


「ディアナ王女がいらっしゃっております」


「ディアナが……」



 王女が夜に家族でもない男の部屋を訪ねるなど……と思わずため息をつきたくなる。箱入り娘の彼女はその辺りの常識を教わっていないのだろう。



「あっ、イル様!」



 扉を開けると、ディアナは湯気を立てる二つのティーカップをのせたトレイを持って、従者のすぐ横に立っていた。

 彼女はイルヴィスの顔を見るとぱあっと表情を輝かせる。



「あの、一緒にお茶を飲みたいと思いまして、持ってきたんです」


「ディアナ。こんな時間に一人で男の部屋へ来るなど、あまりに不用心ではないか?」



 軽くたしなめるも、ディアナはきょとんとして首を傾げた。



「来てはいけませんでしたか?」


「良くはないだろう」


「そうですか……。ですけどイル様、イル様がこの城にいらっしゃる間、私との時間を優先すると約束してくださいましたよね?」



 上目遣いでそう言われると黙るしかない。


 ──ディアナと過ごす時間を優先させる。

 それは、この城に来た初日に彼女と交わした約束だった。


 あの日、アリシアがイルヴィスの婚約者であるという事実を知ったディアナは、泣きながらその場から逃げるように去った。


 カイに促され追いかけていくと、彼女はうずくまりながら涙を流しており、イルヴィスに対してぽつりぽつりと話し出した。



 昔から可愛がってくれたイルヴィスが、誰かのものになってしまうという事実が受け入れ難く、自分から遠い存在になってしまうことが悲しくて仕方がなかった。


 全く知らない女がイルヴィスの婚約者なのだという事実を目の前にして、耐えきれず逃げてきてしまった。


 要領を得ない話し方ではあったが、内容はだいたいそのような感じだった。


 その時、話を聞いたイルヴィスは少しだけ嫌な予感がした。


 幼い頃から交流のあるディアナのことは、ほぼ妹のように思っている。自分によく懐いてくれたディアナは確かに可愛らしく、実の弟たちより本当のきょうだいらしいと思ったほどだ。


 それ故、彼女の性格もよく知っていた。


 あまり世間を知らない彼女は、いつもどこか危なっかしい。

 気に入らないことがあれば癇癪を起こすか塞ぎ込むかのどちらか。それだけならまだマシだが、気を取り直した後は「何としてでも思い通りにしよう」考えるのか、突拍子もない行動に出ることもある。


 ディアナは、突如現れたアリシアの存在が気に入らない。恐らく気に入らないと泣きわめいているだけに留まらず、気持ちが落ち着いた後は、何らかの方法でアリシアに危害を加えようとするのではなかろうか。



 アリシアに手出しさせるわけにはいかない。だからこう言った。


『私は何も変わっていない。婚約者ができたくらいで遠い存在になったりはしないから安心しろ』


 その言葉はディアナを満足させたらしく、彼女は目を輝かせながら何度もうなずいた。

 だが、満足したように見えた彼女も、さすがにその言葉だけで納得はしていなかったらしい。


『それが本当なら、昔と同じように、私のことを一番に見て、私と過ごす時間を何よりも優先してくださいますか?』


 ディアナ自身にも、これはわがままだという自覚はあったらしく、この城にいる間だけで構わない、とすぐに付け足した。


 結局、少し戸惑ったものの、ディアナと共にいる時間が増えれば彼女がアリシアに手出ししないよう見張りやすくなるだろうと思い、イルヴィスはそれを了承した。


 ……後悔したのは、ディアナが想像していた以上の時間ベッタリくっついてきても、その約束を引き合いに出され、今のように拒絶できなくなってしまったことだ。



「わかった。だが、紅茶だけ飲んだらすぐに部屋へ戻ると約束しろ」



 今回も諦めて、イルヴィスは部屋の戸を開けた。

 疲労が隠しきれない様子の従者に、今日はもう下がって良いと告げ、ディアナを部屋に通す。



「お邪魔します。うふふ、昔もイル様がいらっしゃった時はこうやってお部屋に遊びに来ていましたね。まあ、カイ兄様も一緒でしたけど」


「そうだったな」


「懐かしいですわ。あ、紅茶はここに置いてよろしいですわね」



 そう言ってディアナは、ベッドのそばにあったテーブルに紅茶を載せたトレイを置いた。

 窓の近くにあるテーブルにはソファーを向かい合わせで置いてあるのに対し、こちらのテーブルには椅子が一つしか置いてない。


 何故こちらを選ぶと眉をひそめた。



「いや、窓際のテーブルに……」


「ふふ、細かいことは良いではないですか。冷めてしまう前に飲みましょう」



 ディアナはイルヴィスの話を聞き入れようとせず、にこりと微笑んで椅子に腰を掛けた。

 一つしかない椅子を使われ、イルヴィスは仕方なくベッドに座った。



「カーラに頼んで、少し珍しい紅茶を淹れてもらったんですの。スパイスのような香りがして、味もいつもの紅茶とは少し違います」



 そっと匂いをかぐと、確かにツンと鼻を突くような強いスパイスの香りがする。


 ゆっくり口に含んでみると、味の方もかなりスパイスか何かがきいた独特な味がする。



「本当は多めのミルクとお砂糖を入れて飲むものなのですけど、この時間に甘い物を取ると体に悪いとカーラに止められてしまいまして」


「ああ……確かに」



 甘みがあればもう少し飲みやすいだろうか。アリシアならばこのままでも「珍しい」と言って喜ぶかもしれないが。


 スパイスのせいなのか、身体が内側から温まってくるのを感じる。



「いつもの紅茶の方が好みですけど、これはこれで美味しいですわ」



 ディアナはそこそこ気に入った様子で、嬉しそうに紅茶を飲んでいる。


 この国は、グランリアと比べお茶を楽しむ習慣が定着しており、そのためか城にも代々お茶係という役職がある。この城に来てから出された紅茶は全て、そのいわばお茶を淹れるプロが淹れた紅茶なのだから美味しくないわけはない。


 だが──



(アリシアの淹れるハーブティーが飲みたい……)



 アリシアが自分のために淹れてくれるハーブティーが飲みたい。高級な茶葉を使った紅茶より、彼女が選んだハーブティーの方が嬉しい。



(アリシアの顔が見たい……)



 そんな思いがぼんやりとする頭の中を巡る。


 そういえば、先程から何故か頭がぼんやりとしている。


 それに身体も妙に熱い。紅茶に入ったスパイスのせいかと思ったが、果たしてここまで熱くなるものなのか。


 じんわりと出てくる汗の量は次第に増えていっている感じがあり、手には上手く力が入らないような気がする。



(何なんだ……?)



 乱雑にティーカップをテーブルへ置き、手を握ったり開いたりして動かしてみる。



「イル様?」



 目の前のディアナがこちらをじっと見つめている。


 その表情に、どこか違和感がある。


 彼女はこんな風な目をしていただろうか。何故、そのように微笑を浮かべているのだ。



「ディアナ……」



 一つの可能性に思い当たった。

 シャツの袖で額に浮いた汗を拭い、熱い息を短く吐き出す。

 普段ならば確証もないのにこんなことは言わないだろうが、このぼんやりとする頭では上手く考えられず、イルヴィスは考えた可能性をそのまま口にした。



「ディアナ……この、紅茶に、何を……混ぜた……?」




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