呼び出し



(あああああ……)



 なかなか熱の引かない頬を押さえながら、アリシアは早足で歩いていた。



(よく考えたら看病のためとはいえ、一晩中殿下のそばに……)



 昨夜。

 この城に戻ってきたアリシアは、姉に宣言したということもあり、すぐにでも気持ちをイルヴィスに話そうと思った。遠回しに、ふんわりとで良いから伝えたかった。


 しかし、いくら婚約者といえどこの時間に訪ねて行くのはいかがなものかと、彼の部屋に近づくにつれ怖気付いてしまった。


 そんな時、誰かがすすり泣きながら、イルヴィスの部屋の方から走ってきた。


 ふわふわとした、茶色に近い金髪の少女。ディアナだ。


 ディアナは少しもアリシアに気づく様子もなく駆けて行き、その場にはすぐに静寂が戻った。

 気になって彼女が駆けてきた方を見ると、部屋の扉の前でうずくまる人物がおり、何となく嫌な予感がして近づくと、その人物はイルヴィスだった。


 彼は少し触れただけですぐにわかるような高熱で、ほどなくして意識を失っていた。


 先ほどディアナが泣きながら走り去って行ったことと何か関係があるのか。アリシアと同様、倒れたイルヴィスを見つけ、助けを呼びに行っていたのだろうか。


 それは考えたところでわからなかったので、アリシアはとりあえず必死になって叫び助けを求めた。

 しばらく待ってもディアナは戻ってくることはなく、アリシアの声が枯れかけた頃にようやく、イルヴィスの従者が気づいてくれた。


 従者の手で部屋に運び込まれたイルヴィスを、アリシアは夢中で看病した。その時は、具合悪そうにうなされている彼がただただ心配で、他のことを考える余裕はなかったのだが……。


『貴女の手は少し冷たくて気持ち良いな』


 目覚めた彼の体温を確認するために額に触れると、いきなり手をとられていたずらっぽく笑われた。

 少し汗ばんだ肌、アリシアの手にサラリとかかる金色の髪。


 すっかりいつもの余裕のある表情を取り戻した彼を見た瞬間、今度は自分が熱を出したのかと思うほどに顔が熱くなった。



(心臓に悪いわよもう……)



 今までだって、こんな感じで触れられることがなかったわけではないはずだが、自分の気持ちを諸々と自覚してしまった状態では、無駄にドキドキしてしまう。


 むしろ、彼はアリシアが自覚する前から既にアリシアの気持ちに気づいていて、その上でからかっているのではないかとさえ思えてくる始末だ。



(まあ、さすがにそれはない……わよね)



 大きな窓の近くまで来て、ゆっくり息を吐いた。


 外を見ると、キラキラと輝く美しい海とよく晴れた青い空が眩しい。



(ていうか、少しでもこの気持ちを伝えようと思っていたはずなのに、結局逃げてるじゃない……)



 少しばかり自己嫌悪にかられ、また短くため息をつく。


 だが落ち込むのと同時に、今度は少しおかしくなってきた。こんな甘酸っぱい感情にくよくよ悩む日が、自分に来ようとは。


 そうやって一人コロコロと表情を変えていると、背後から話しかけられた。



「あの、アリシア様……でしょうか」



 アリシアの名を呼ぶためらいがちな声。


 振り返ると、この城で働くメイドと思しき人物が立っていた。



「ええ、そうだけれど」



 この城で働く人々は、皆ディアナが可愛いがためにアリシアへ敵意を抱いている……との話なので、アリシアは警戒しながら答える。



「ええと、ディアナ王女がアリシア様とお話がしたいと……」


「……え?」


「あの、それで、庭のハイビスカスが咲いているあたりに来て欲しいそうでございます……。それだけです。失礼します」



 要件は伝えたからとばかりに足早に立ち去るメイドらしき女。



(いやいやいや話って何よ。わざわざ場所指定して伝えさせたって?……怪しすぎでしょ)



 今までの傾向からいくと、ディアナ本人が何か企んでいる可能性より、今のメイドなどを含めたこの城で働く人々──ディアナの親衛隊たちがまた何か仕掛けてこようとしている可能性が高い。


 

(まあ、天気も良いし、また庭に出てみるというのは悪くないけれど)



 警戒心を抱きながらも、同時にそんな呑気なことも思う。


 それに、もしも本当にディアナがアリシアと話したがっているというのなら、無視してはまずい。


 バケツの水をかけられないか、落とし穴が掘られていないか……。その辺に警戒しながら行ってみよう。


 そう思って階段を下りる。

 外の明るさに目を細めながら庭に出ると、相変わらずたくさんの花々が咲き誇っていた。


 残念ながらアリシアは、ハーブティーに使えるハーブ以外の植物に関してはあまり詳しくないので、これらの可愛らしい花々の名前はわからない。


 友人である庭師のミハイルや、カフェのオーナーでありながら何故か妙に博識なリリーあたりがいたら喜んで解説してくれそうだ。



(ええと確かハイビスカスが咲いていたのは……)



 広大な庭の中、キョロキョロと周囲を見渡しながら、記憶を辿りつつハイビスカスの植えられていた場所を探す。


 前はカイに案内される方についてきただけだったため何度も迷いかけたが、何とか見覚えのある場所まで来られた。



(さてと……待っているのはディアナ王女と落とし穴のどちらかしら)



 足元に注意を払うことを忘れずに、ゆっくり足を進めていく。


 すると──



(あっ)



 ハイビスカス畑の中にたたずむふわふわした金髪の少女の姿があった。



(本当にディアナ王女が……無視しなくて良かった)



 降り注ぐ日差しを眩しそうに手で遮りながら真っ青な空を見上げるディアナ。


 割と離れた距離から後ろ姿を見ているだけなのに、彼女から哀愁とも呼べるような、どこか儚い雰囲気が感じられる。


 ゴクリと唾を飲み込んで、彼女の方へ足を踏み出す。


 ディアナはアリシアに話したいことがあるということだが、こちらも話したいことはある。昨夜の涙の理由をはじめ、色々と。



 意を決して、彼女の名を呼ぶべく口を開く。



「ディア……」



 しかし、呼びかけた彼女の名前が、アリシアの口から最後まで発せられることはなかった。


 強い力で、誰かがアリシアの手を後ろから引いた。


 突然の出来事を理解する間もなく、嗅いだことのないような、甘ったるくて胸焼けのしそうな香りが嗅覚を刺激した。それと同時に、何か布のような柔らかいものに口を覆われる。



「ん……!んんっ」



 驚いて声を上げようとすると、口元をさらに強く布のようなものを押さえつけられた。


 どうにか抵抗しようと暴れたせいで、息苦しくなり、思わず甘ったるい匂いをいっぱいに吸い込んでしまう。と、同時に意識が一気に遠のいていく。


 意識が完全になくなる直前、こちらを振り返り笑みを浮かべるディアナが、遠くに見えた気がした。





「ふふ、うふふふ……」



 目の前で繰り広げられた光景に、ディアナの口からは自然と笑い声がもれた。

 ハンカチに染み込ませた薬を嗅がされたアリシアは、それを実行した人物の腕の中でぐったりとしている。



「ふふ、ちゃんと来てくれて良かった。お陰で計画通りに進められそうですわ」



 上機嫌に言いながら、ディアナは目を閉じたアリシアの頬に触れる。


 この女のことは、整った目鼻立ちから少し珍しいターコイズブルーの髪、細いのにか弱さを感じさせない手足に至るまで、全てが気に入らない。



「誰もいないうちに外へ出ましょう。実はこの前、城壁の一部に割れ目があるのを見つけましたの。そこからなら人目に付かずに出られますわ」



 物騒だから早く言って修理させようと思っていた城壁の割れ目。


 すっかり忘れていたが、まさかこんな形で役立つとは思っていなかった。


 ディアナはあらかじめ用意していた外套を意識のないアリシアと彼女を抱える人に着せ、自らも羽織り目深にフードをかぶる。


 目立たないように城を出た後は、このまま港まで行く手はずになっている。




 広く海に面したこの国は、海路が発達しており、たくさんの商船が行き来している。その中には、表で普通の商売をしていても、金さえ払えば何でも運ぶような裏の取引を行う連中もいる。


 そのような連中に十分な報酬を渡し、アリシアが二度とイルヴィスの前に現れることができないよう、どこか遠くの国へ連れていかせる。


 要するに昨夜ディアナが血の上った頭で思いついた計画とは、彼女を誘拐して行方不明にする計画だ。



(イル様。たとえあなたがどんなにこの女を愛していようと、行方不明になったのでは妃にすることはできませんわ。そうなったら今度こそ──私を選んでくださいますね?)



 ぎゅっと拳を握って、ディアナは心の中で愛する人に語りかける。


 正しいことをしているとは思っていない。しかし、もう自分止める術は知らなかった。



「行きましょう」



 力強い声で、自らを奮い立たせるように言い、歩き出す。


 その後ろで、気絶したアリシアを背負う協力者が、ニヤリとほくそ笑んでいたことを、この時ディアナは知る由もなかった。



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